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末武保と切山保の成立

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 荘園が各地で発達し、王臣貴族や寺社の開墾した荘園、あるいは地方豪族の寄進した荘園など、いずれにおいても現地の経営・管理を担当する荘官には在地豪族を補任した。荘田の耕作は、在地の有力者が一年ごとに請負い、収穫の二割前後を地子として納入する請作が広がった。このような耕作者を田堵(たと)といい、請作地に対する耕作権をしだいに強め、その名を冠して名田と呼んだ。国司に対する不輸不入権を獲得しながら、名田を対象に年貢(米)・公事(畠作物・手工業生産物)・夫役(労役)が課せられた。有力な田堵は名主と称し、所従・下人を駆使して私領を開発し、在地領主に成長する階層があらわれてきた。権門勢家と重層的につながりながら、古代社会を封建社会へと揺り動かしてゆくのである。他方、荘園の拡大に対し、国司、といってもすでに国司は在国せず、その目代と在庁官人の支配下にあった公領(国衙領)においても、田堵による請作が行われ、年貢以下の所当官物を納入した。耕営の単位はただ、公領の場合、保と呼んだ。
 下松地域で、もっとも早く知られる公領の一つは、末武保であった。一一八七年(文治三)、末武・得善(徳山市富岡か)の地頭、筑前太郎家重が都乃郡内を横行して、官庫を開き、所納米を押領、農事を妨げることがあったという。周防国が東大寺再建料国にあてられた直後のことで、東大寺の大勧進俊乗坊重源は、再建用材の杣(そま)出しに障害になるといって、周防国在庁官人の解状をそえて朝廷に訴えた(『吾妻鏡』文治三年(一一八七)四月二十三日条)。両所が公領の保であったことは、東大寺と国衙在庁官人側からの言上にあらわれる点からも、容易に知られる。末武保の保域は明確ではないが、末武・生野屋一帯にわたったのであろう。域内に京都の石清水八幡宮配下の遠石八幡別宮の荘園が介在し、内藤盛家がこれを押領したことがある(『鎌倉遺文』一-五〇八)。
 別の保に切山保があり、在庁官人賀陽資成の書生職に宛行(あてが)ったが、一二七七年(建治三)地頭に押妨され(同、一七-一二七八九)、一二九四年(永仁二)、また周防国内の諸郷保に対する地頭の濫妨を停止するための施行状(同、二四-一八六七三)のなかに、都乃本郷切山保が見える。末武保・切山保とも、その成立は平安末をくだることはなかろう。