一方、荘園には鷲頭荘(庄)がある。京都の「仁和寺諸掌記」によると、平安末期、寺境内の蓮華寺は鷲頭荘を所領として建立され、そのため周防堂の別名をもつ(第二編第二章、1)。さきの一二九四年の諸郷保中にみえ、公領から転じたことが分かる。荘域は河内・豊井とその周辺に及んだのであろう。鷲頭荘を勢力基盤として有力化したのが鷲頭氏で、中島本「大内氏系図」(毛利家文庫)によると、鷲頭氏の祖は盛保といい、盛保は父の多々良盛房らとともに、一一七八年(治承二)配流先から召還された(『玉葉』治承二年(一一七八)十月八日条)。周防国在庁官人の中で最有力であった多々良氏の一族として、都濃郡鷲頭地方に居住して、鷲頭氏を名のったのであろう。多々良氏本宗は、おそくとも十二世紀半ば(仁平年間)までには、山口の大内地区に本拠を移したから、そのころ盛保が鷲頭地方に盤踞したとする系図伝承は、大内氏一族の分枝の時期とよく符合する。有力名主となって、社会的不安と農村社会秩序の変動のなかで、私的な武力を組織しはじめた武士的領主のひとりであろう。
律令国家の没落と軌を一にして、諸国府・郡家と平安京を直結する大路山陽道とその駅家の維持も、困難となってきた。生屋駅家頭に繁務をもたらした官使の送迎は、十一世紀初頭をもって、その記録を絶ってしまう。駅制に代わって、とくに荘園年貢・公事などの運搬を中心とする荘園制的交通機関の役割を果たすようになるのが、地域交通の要地に成立した宿(しゅく)や納所(なっしょ)である。山陽道沿いの在地の有力豪族の私的経営による点で、律令制の駅家とは著しい相違がある。有力な在地領主はまた、新しい時代の交通路の宿の長者となることが少なくなかった。