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東大寺の造営料国

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 保元の乱(一一五六年)から約三〇年後の一一八五年(文治元)三月、平氏は長門の壇ノ浦で滅亡し、代わって源頼朝が鎌倉に武家政権を樹立した。八〇年(治承四)源頼政が後白河法皇の皇子以仁王を奉じて挙兵すると、伊豆に流されていた源頼朝をはじめ信濃の木曽に隠れていた源義仲ら諸国の源氏が蜂起した。頼朝は北条時政の援助を受けて挙兵したが、富士川の戦いで平氏を敗走させてからは、鎌倉に留まって関東の地盤を固めることに専念した。これに対して、義仲は八三年(寿永二)北陸路から京都へ攻め上り、平氏を追ったが、その粗暴さを憂えた後白河法皇は頼朝に義仲討伐を命じた。翌八四年正月頼朝は弟の範頼・義経らに義仲を討たせた。義経らは更に一ノ谷に陣を構えていた平氏を攻めて、これを敗走させた。敗れた平氏一族のうち、宗盛は安徳天皇を奉じて讃岐の屋島に退き、知盛は西下して安芸・周防を回復して大島に城を築いた。このとき大島郡屋代庄の住人屋代源三や下司小田三郎守真らが知盛の配下で活動している。
 この年八月、源範頼は平家追討使として関東の精鋭を率いて鎌倉を出発し、京都を経て山陽道を下り、安芸を平定して周防に入った。範頼の進出に孤立を恐れた知盛は大島の城を棄てて長門に退き、彦島(下関市)に要害を築いてここを本営と定めた。同年十一月十四日、範頼は頼朝に宛てた書状(『吾妻鏡』)に、兵糧が不足がちで、兵士の気勢があがらず、故郷を恋しがって逃げ帰ろうとするものが多いと述べ、頼朝の出陣を望んだ。これに対して頼朝は駐屯地の人々の心を大切にすることが肝要であると返信している。このあと範頼は彦島を拠点とする知盛の背後を遮断するため九州渡航を企てたが、船を得られず、翌八五年正月十二日、いったん周防へ引き揚げた。このとき熊毛郡宇佐木の住人上七遠隆が兵糧を献じ、豊後の住人臼杵二郎惟隆・緒方庄司惟栄兄弟が兵船八二隻を提供したので、範頼は三浦義澄を周防に残して豊後に渡った。
 一方、義経は同年正月、四国の監軍として京都を出発し、翌二月十七日強風をついて摂津渡部を出帆し、十九日屋島をついた。逃れた宗盛を更に追って、二十二日志度の道場を攻めた。二度に及ぶ戦いに敗れた宗盛は彦島の知盛に合流すべく海上を西走した。同日梶原景時以下将士が一四〇隻の兵船に分乗して屋島に到着し、伊予国在庁の河野通信も兵船三〇隻を率いて義経のもとに参加した。更に紀州熊野の別当湛増らを味方につけて義経は、伊予・熊野の海賊衆を先鋒として、三月大島津に着いた。このとき周防国在庁大内盛房・弘盛父子は源氏方に加担し、同じく在庁の船奉行船所五郎正利も数十隻の兵船を率いて加わった。同月二十二日大島津を出発した義経軍は、二日後の二十四日長門壇ノ浦の海上で平氏と戦い、これを破った。同年十一月頼朝は後白河法皇から全国の国衙領・庄園に守護・地頭を設置することを認められると、ようやく全国政権としての公的性格を備えることになり、ついで一一九二年(建久三)征夷大将軍に任ぜられたことによって鎌倉政権が成立した。
 一一八六年(文治二)三月二十三日、周防国は東大寺造営料国にあてられ、その国務管理には東大寺の大勧進俊乗坊重源が任命された。その目的は、さる一一八〇年(治承四)四月二十八日平重衡らの兵火にかかって焼失した東大寺の再建に資するためであった。当時、周防国は藤原実教の知行国であったが、これが東大寺の造営料国にあてられたため、実教には別に丹波国が給された。実教の隠退後、丹波守は長子公頼に、周防守には次男の公基が任命されたが、周防国の国務管理は事実上、重源に任されていたから、これを国司上人とよんだ。建久六年東大寺が竣工したあと、周防国は一二〇九年(承元三)に山城国法勝寺の九重塔、ついで一二一三年(建保元)には京都感神院の造営料国になったが、一二三一年(寛喜三)再び東大寺に寄進された。