末武保の保域は末武上・中・下の一帯と考えられている(『防長地名淵鑑』『徳山市史』)。『吾妻鏡』文治三年(一一八七)四月二十三日条に、周防国は昨年四月五日東大寺造営のため寄付せられたので、早速杣出しを始めたところ、鎌倉の御家人たちが武威をひけらかせて、これを妨害するとして、同年三月一日重源は在庁の訴状をもって朝廷に訴えた。これを受理した朝廷はその解状を鎌倉幕府に下したとある。その訴状はつぎのとおりである。
材木の伐り出しが緊急のことであるので、下国したのであるが、武士の狼籍は止どまるところがない。筑前冠者家重・内藤九郎盛経・三奈木三郎守直・久米六郎国真・江所高信らの地頭が国内の各所に設置された官庫の所納米一八六石を理由もなく押取してしまった。材木の引夫として徴発する公民に支給する食料として頼みにしていたものである。このような狼藉が頻発するとすべて予定が狂ってしまう。制止しても聞き入れてくれない。武士たちに自重してもらわなければ、東大寺造営という大事業はとても成就しがたい。かねてから公民をかり集めて、城郭の構築や私的な杣づくりに従事させるので、材木引夫に召集しても承知してくれない。また山野の狩りなどして、まったく院宣(文治二年(一一八五)三月二十八日付)など顧みようともしない。以上のような事情であるから、諸事順調に運ばないのではないかと懸念するので、急なことではあるが訴えるものである。なお仔細な在庁の解状に申しあげるとおりである。
重源の訴状に添付された同年二月付の在庁の解状に、つぎの二ケ条があげられている。一つは都濃郡の得善・末武両保の地頭筑前太郎家重が郡内を横行して官庫を打ち開き、国衙領の正税を押奪し、狩猟をこととし、そのうえ公民をかき集めて城郭を掘らせるなど自由気ままに勧農を妨げたこと、いま一つは大島郡の久賀・日前・由良の地頭江所高信が官庫の正税を押し取り、あたかも保司のごとく雑事をとり行い、国衙の命令に従わないことである。前者については、更に具体的な罪状をつぎのように述べている。
周防国は狭少である上、庄園が多く、したがって国衙に従う地が少ない。源平争乱後はいよいよ田畠は荒廃し、土民なきがごとき状況である。当国が東大寺に寄進されて以後も、不輸別納とか新立荘園の加納とかいって、催促役に従う地もなく、ややもすれば喧嘩訴訟がまかり通り、国宣に従うものもいない。なかんずく、末武・得善は荘園ではなく国衙領である。いわんや、下文には国免別納のこともなく、ただ地頭職として沙汰いたすべしとあるだけである。にもかかわらず、武勇にまかせて、かの両保を押領したうえ、柱引きの食料として官庫に割り置いていた乃米四〇余石を押し取り、その所納米をもって農事中の公民をかり集めて城郭を掘らせたり、鹿狩りや鷹狩りに従事させるときの食料にあてるのである。更にまた領内に居住する在庁書生・国侍等を家中に服仕せしめて公役を勤仕させない。東大寺の造営のことなど意にも介さない。まことに天魔の障りというほかない。せっかく大物を採取しても、これを引き出す人夫が不足していて、そのほとんどがいまだに放置されたままになっている。こんなことで、どうして希代の造寺を成就することができようか。同輩のためにも、彼らを召し禁ぜられ、かつ別の使いを下されて自由濫吹を停止せられることを欲している。
以上が重源の訴状の内容である。鎌倉時代初期の末武保の状況を知りうる唯一の史料と思われるので、全文を抄録することにした。