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末武保から末武庄へ

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 重源に訴えられた筑前冠者家重・内藤九郎盛経・三奈木三郎守直・久米六郎国貞・江所高信の五名はいずれも周防国内の本補地頭である。このうち筑前冠者家重と内藤九郎盛経は都濃郡、江所高信は大島郡の地頭であるが、残る二名は不明である。地頭が守護とともに設置されたのは平氏滅亡後半年たった一一八五年(文治元)十一月のことであるから、この訴状はそれから二年もたたない時期のことである。守護・地頭を設置した名目は義経・行家の追捕にあったが、その真意は頼朝が守護・地頭を設置する権限をもつことによって、まだ組織化されない地方武士をより広く組織し、彼らを通じて公家政権の経済的地盤である庄園を制圧しようとしたことにあった。またこのことによって、ようやく鎌倉政権は全国的政権として公的性格を備えることになったのである。守護が謀反・殺害人および大番催促の三つ、つまり大犯三ヵ条を職権としたのに対して、地頭の職権は自己の支配範囲内での警察権、国衙・庄園領主および自己のために年貢・公事を取りたてる徴税権、土地に対する管理権の三つである。ただし、承久の乱後補任された地頭職については得分の先例がない限り、支配地域の一一町ごとに一町の免田と段別五升の加徴米が与えられた。これを新補地頭といい、これより以前に補された地頭を本補地頭とよんで、区別した。本補地頭が新補地頭と基本的に異なる点は地頭が在地支配を進める根拠となる土地そのものの処分や譲与を支配進退する下地進止権を認められていることであった。
 訴状にあげられた地頭の悪業を要約すると、官庫の所納米を横奪し、城郭の構営や私的な杣づくりなどに公民をかり集めて材木引夫のための徴発を妨げたこと、領内に居住する在庁書生国侍を服仕させ、公役を勤仕させなかったことの二点であるが、これを地頭の立場からみると、どのような意味をもっているのであろうか。
 国衙領の正税を納めた官庫は杣出しの作業現場付近にそれぞれ設けられたものらしく、所納米の使途は東大寺造営用材木の引夫として徴発した公民に支給するものであった。保司の立会いのもとで行われていたとはいえ、その納米の検納・検封は納所使書生の権限であったから、こうした在庁書生国侍を家人化することによって、はじめて所納米の横奪が可能になり、その所納米をもって城郭の構営や杣づくりなどの私的な地頭労働に公民をかり集めることができたのである。
 ついで、『吾妻鏡』の建久二年(一一九一)正月十八日条および石清水文書の同年二月十日付石清水八幡宮寺別当下知状に、御家人内藤盛家が建久元年春以来、末武・得善両保内にある東大寺所管の国衙領と石清水八幡宮別当所管の荘園を押領したとの理由で、同宮別当に訴えられたという記事が見える。地頭は国衙や庄園領主とこのようなトラブルを幾度となく繰り返しながら、しだいにこれを侵略しつつ、在地領主化していくのである。
 南北朝期に入ると、史料の上では末武庄とか末武郷とかの名称が見られる。たとえば、一三四七年(貞和三・正平二)四月二十八日陶弘政が生野屋与一権守にあてた宛行状(「金藤文書」)に「鷲頭庄末武郷三分一内上出作」とある。一三五二年(観応三・正平七)八月日付内藤藤時軍忠状(『閥閲録』)に「構城郭於所領末武庄、差塞御敵之通路」とあるから、末武庄の一部は内藤氏の所領であったことが分かる。また一三六五年(貞治四・正平二〇)四月二十七日前美作守(安富)直嗣が久米村慈福寺に宛てた寄進状(『寺社由来』)に「末武庄内香力名」と見える。慈福寺は曹洞宗寺院である。寺伝によると、一三三六年(建武三・延元元)足利尊氏が西下の途次、当寺に滞留して逆修供養のため石塔を建立したが、このとき安富直嗣は、尊氏から徳大寺卿所蔵の仏舎利一粒を下賜され、これを納める舎利殿を建立し、寺領を付してみずから開基になったとある。直嗣が末武庄内の香力名を慈福寺に寄進したのはこのときのことであろう。これより少し前の一三五四年(文和・正平九)智義という人物が慈福寺長老に宛てた文書(『寺社由来』)に「周防国香力浜荒野田地弐丁之事、被開作候者、任故入道状相違、恐々敬白」とあるから、末武川の河口付近にあたる香力の開発はこのころから進められたものと思われる。
 以上の史料に散見する末武庄がいつ立庄されたかは不明である。また鷲頭庄内末武郷という記載は末武保の一部が鷲頭庄に繰り入れられたことを示している。
 一五一七年(永正十六)九月十一日、大内義興は冷泉興豊に都濃郡末武村六〇石地(安富三郎跡)を宛行っている(『閥閲録』)のをはじめ、当地内には大内・毛利両氏の家臣の給地が多く設けられているが、この時期になると、国衙領・庄園ともに本来の性格を失い、単なる地名に過ぎなくなった。