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切山保

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 切山保の保域は大字切山を中心とする一帯である。一二七七年(建治三)七月日付の賀陽資成申状案(「上司家文書」)によると、切山保は在庁の賀陽資成が書生職の給分として拝領したものであるが、地頭が請所と申し立てて、これを押領したと訴えている。一二九四年(永仁二)十月十三日長門探題で周防守護を兼務していた北条実政が周防国内三十三郷保の地頭にその濫妨を停止することを命ずる施行状を下した(「尊勝院文書」)が、その中に「切山保地頭殿」と見えるから、この紛争は容易に決着しなかったのであろう。一三二五年(正中二)十二月二十六日付の国分寺文書に、法華寺の書生役酒肴料米は今年から書生方より直納することとし、切山保分として二斗九升一合が記されている。
 くだって、戦国期の一五四六年(天文十五)十月六日付の大内氏の家人波多野勝美宛安堵状(『閥閲録』)によると、一五三一年(享禄四)十月二十八日に切山保内二〇石の知行地を養父勝兼から譲渡されたとあるが、この時期になると他の国衙領同様、その実態は消滅していた。