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鷲頭氏の系図

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 系図によると、鷲頭氏は大内氏一六代盛房の子盛保が鷲頭庄の地頭になり、その地名を冠して鷲頭三郎と称し、但馬守に補されたのが起源である。盛保のあとは筑前守親盛が継ぎ、親盛はその女禅恵尼に鷲頭庄の地頭職を譲与し、更にその遺領を長弘が相続したとする。

鷲頭氏略系図

 九条兼実の日記『玉葉』の治承二年(一一七八)十月八日条に、前日の七日に召還された流人ととして「多々良盛保伊豆 同盛房常陸 同弘盛下野 同忠遠安房 已上周防国住人也」とある。この文中の盛保が鷲頭氏の祖で、流刑地は伊豆であったことが分かる。大内氏系図によると、常陸に流された盛房は盛保の父、下野に流された弘盛は盛保の兄となっている。忠遠の名前は見えないが、大内氏の同族であったことは間違いあるまい。流罪の理由は明らかでないが、同系図に弘盛は周防権介に補せられ、大内介と称し、一一八四-八五(元暦年中)平氏追討のときの功労として長門国を賜わったと記されているから、反平氏的行動をとったためであろうか。
 盛保のあと、親盛・禅恵尼・長弘と続く鷲頭氏系図に問題があることは、すでに指摘されているとおりである。長弘は宗家大内弘家の二男で、重弘の弟に当たる。彼が活躍した時期は南北朝時代の前半に当たるから、禅恵尼と長弘の間には数世代の脱落があることは明らかである。