鷲頭庄の立庄の時期は不明であるが、庄名の初見は鎌倉時代初めに書かれた『仁和寺諸掌記』のつぎのような記述である。
蓮華寺は周防堂と号す。鷲頭庄は北堂領なり。今皆破損の間、その勤めはかの本寺内の艮(うしとら)角の不動堂、青蓮寺二箇所<各六人なり>三昧十二人を以てす。昔より北院夏衆を勤められるなり。周防と号するはあるいは周防国司の建立か、はたまた鷲頭庄の故か、
右の記述によると、蓮華寺を周防堂とよぶのは周防の国司が建立したからか、あるいは仁和寺の塔頭の一つである周防堂の維持費を鷲頭庄の収入の一部を宛てたからであろうかと読みとれる。しかし鷲頭庄が蓮華寺に寄進された時期は明らかでない。仁和寺は京都市右京区御室にある古義真言宗御室派大本山で、八八六年(仁和二)光孝天皇の勅願によって着工され、八八八年宇多天皇のとき落成した。天皇は落髪後、同寺の南に一宇を造営し、ここに遷御されたため御室御所とも称された。以後、歴代の法親王が入住し、盛時には六〇余の塔頭・子院が建立された。
一二九四年(永仁二)十月十三日、周防国内の諸郷保の地頭に対してその押領を停止した長門探題北条実政の施行状案に「鷲頭地頭殿」と見えるから、鷲頭庄でも庄園領主と地頭とのトラブルが起こっていたのであろう。
鷲頭庄の庄域は下松市の豊井・久保あたりとされている(『防長地名淵鑑』『山口県文化史』通史篇)。南北朝期の史料ではあるが、陶弘政が代官安永四郎左衛門尉に宛てた貞和三年(一三四七)三月二十一日付の文書(「金藤文書」)に「鷲頭庄山田郷中村」とあり、同じく弘政が生野屋与一権守に宛てた同年四月二十八日付の文書(「金藤文書」)に「鷲頭庄末武郷三分一内上出作」とあり、同じく同人に宛てた正平十六年(一三六一)十一月十三日付の文書(「金藤文書」)に「鷲頭庄生野郷松尾八幡宮」と見えるから、少なくとも南北朝期の庄域は豊井・久保のほか末武の一部も含まれていたと考えられる。
各六人なり>