鷲頭氏が大内氏一七代弘盛の弟盛保を祖とすることはすでに述べたが、これとほぼ同じ時期に分かれた庶家に、一五代貞成の弟清致を祖とする右田氏、右田弘俊の弟弘賢を祖とする陶氏、一七代弘盛の弟長房を祖とする問田氏がある。こうした早期に分かれた庶家は、末武氏や冷泉氏などのように遅く分かれた庶家に比べると、惣領家に対する関係は比較的相互に独立的で、かつ主従の意識が希薄であったが、その一方で相互に継嗣を送り迎えすることによって同族的結束を維持しえたのである。大内氏二一代弘家の二男で、鷲頭氏を嗣いだ長弘の場合はその典型的な例といえる。長弘が病没したのは一三五一年(観応二・正平六)とも五二年ともいわれる(御園生翁甫『大内氏史研究』)から、その活躍時期は鎌倉時代末期から南北朝の動乱期にあたる。
一三三一年(元徳三・元弘元)、北条一門の専制政治に対する御家人の反発が高まってきた機に乗じて、後醍醐天皇は討幕の挙兵を企てたが失敗し、隠岐に流された。翌年閏二月天皇は伯耆の豪族名和長年に救出され、隠岐を脱出すると反北条勢力を結集し、全国的な内乱がはじまった。大内氏は長門の厚東氏とともに、はじめは北条方として行動したが、のち天皇方に属した。それはすでに大内氏が関東御家人の性格を濃くしていたことと歴代北条一門で占められていた長門探題の政治的影響によるものと思われる。一三三三年閏二月、長門探題北条時直は防長の将士を率いて東上しようとしたが、備後の海上で村上義弘の水軍に阻まれて果たせず、一転して天皇方の土居通増を撃つべく、伊予の越智郡石井浜に上陸した。このとき厚東武実が天皇方に呼応するという噂がたって軍中がまとまらず、豊田種長の再三の忠告を容れて一時撤退した。あらためて三月、水居津(松山市三津浜)に上陸し、平井城において土井通増・得能通綱と戦い、大敗を喫して長門に引き揚げた。時を同じくして、石見の豪族吉見頼行の子高津道性は時直討伐の軍を起こし、長門へ進出した。大峯の戦いのさなか、道性に内応した厚東武実をはじめ、大峯の地頭由利氏や伊佐の地頭伊佐氏らは道性と協力して、四月一日以来長門探題の居館を激しく攻めたて、時直を出奔させた。ここに、一二七六年(建治二)蒙古の来襲に備えて設置されて以来、北条氏が歴代つとめた長門探題は滅亡した。
一方、中央では幕府軍の将足利尊氏が途中から天皇方に属して京都六波羅探題を陥れ、つづいて新田義貞が鎌倉に攻め入り、北条高時以下一族を滅ぼした。こうして鎌倉幕府は滅亡し、代わって光厳天皇をしりぞけ天皇に復帰した後醍醐天皇による親政が始まった。いわゆる建武中興である。このときの論功行賞において、鷲頭長弘は周防守護、厚東武実は長門守護に補せられた。