中興政府は公家政治の復活を目指したものであったから武士たちが望む政権とはほど遠く、新政に不満をもつ武士がふえてきた。一三三五年(正慶四・建武二)北条高時の遺児時行らが鎌倉幕府の再興をはかって鎌倉を占拠すると、足利尊氏はその鎮圧のため東下し、この乱を平定したが、このあと新田義貞の討伐を名目にして中興政府に反旗をひるがえした。これに対して中興政府は新田義貞らに命じて尊氏討伐軍を派遣した。このとき大内弘幸の弟弘直や厚東武実の子武村も従軍したが、敗れて京都に引き揚げた。このあと、大内・厚東両氏は尊氏に加担したので、防長両国の武士はこれに同調するものが多くなった。翌三六年(建武三・延元元)正月、尊氏は京都へ攻め上ったが、新田義貞・楠木正成らとの戦いに敗れて兵庫に退いた。このとき鷲頭長弘・厚東武実らが兵船五〇〇隻を率いて入港したが、尊氏はいったん九州へ下って再起を期すこととし、二月十二日鷲頭・厚東らの兵船に乗って海路大宰府へ向かった。西下にさいして、尊氏は政府軍の追撃に備え、瀬戸内諸国に部下の武将を配した。周防には鷲頭長弘、長門には厚東武実をそれぞれ守護に任じた。
九州を平定した尊氏は、四月三日東上の途についた。途中、長門国府に逗留し、忌宮神社や住吉神社に詣でて戦勝祈願を行うとともに中国地方の要として、一族の上野頼兼を石見の守護に補した。その後、厚東武実が準備した串崎船に乗船して笠戸島・竈戸関を経て、五月五日備後の鞆に着いた。ここから海陸二手に分かれて上洛することとなり、防長の軍勢は足利直義の指揮下に入って陸路を進み、同月二十五日湊川で楠木正成を破って入京した。八月十五日尊氏は持明院統の豊仁親王を立てて光明天皇とし、十一月二日神器の授与がなされたが、翌十二月後醍醐天皇は吉野へ逃れ、皇位の正統性を主張したので、天皇親政の南朝と尊氏が擁立した北朝とが並び立つことになり、以後五〇年余にも及ぶ南北朝の動乱が始まった。