南北朝の対立とはいっても、南朝に力があったわけではなく、実質は尊氏の執事高師直と尊氏の弟直義が対立するという幕府内の紛争であった。師直の死後は尊氏と直義の対立となって持ち越されたが、一三五三年(文和二・観応三)尊氏によって直義が毒殺されることで、この内紛は終結した。しかしこの間、尊氏・直義が政略的に一時南朝と結ぶなどしたため、結果的には南朝の延命を助けることとなり、動乱を一層複雑なものにした。
中央の動向はそのまま地方にも波及した。周防では北朝守護鷲頭長弘と惣領家の大内弘幸の対立という形で守護領国制が進められた。一三四一年(暦応四・興国二)、大内氏の氏寺氷上山興隆寺が何者かのために放火され、院内の坊舎以下、門前在家に至るまでことごとく焼失するという珍事が起こった。弘幸は興隆寺衆徒に宛てた書翰に「当寺院内坊舎以下在家等敵方の為に放火され候」と述べ、更に続けて、「かの一苗家風(いちみょうかふう)の代官等の為に炎滅せしむるの条希代の兇悪なり」と悲憤慷慨するのである。敵方である一苗家風の代官が長弘をさすことはいうまでもない。この暴挙は、大内氏一族の精神的支柱である氏寺を経営する惣領弘幸に対する長弘の反発とみられる。しかしこの事件は鷲頭氏と惣領家の決定的対立にまで発展しなかったものの、惣領弘幸をおさえて周防守護に任ぜられた長弘が、大内氏一族の中心的勢力たろうとする限り、惣領家との対決は避けがたい状況にあった。
ちょうどこの時期は、地頭が国衙や庄園領主と紛争を重ねながら下地進止権を強引に取得し、在地に支配体制を固めていった時期でもあるから、長弘は守護としてこうしたトラブルの裁定に当たることが多かったと思われる。その二、三の例をあげてみよう。
玖珂郡与保田(柳井市)の場合、一三三九年以来、国衙の雑掌定尊と地頭与田彦太郎光秋との間で、光秋が同保の年貢を抑留したとして争論が生じた。これに加えて同保の一分地頭職に補された高又四郎頼重が保内の二ヵ所の名田を先任の頼氏跡といって、光秋方に内通し、年貢を抑留したり、課役をこばむことがあった。そのため、定尊はこのことを再三幕府に訴えたが、効果なく、尊氏は守護長弘に命じてその解決を促している(「東大寺文書」)。佐波郡小野保(山口市)の場合は、三九年右田三郎重貞が所務を横領し、国衙の使者を刃傷したとして、国衙の雑掌から幕府に訴えられるということがあった。重貞の父浄観の言うところでは、国衙使が守護に敵対したからというのであるが、尊氏は証拠不十分として、長弘に命じ、下地を雑掌に返させ、重貞の狼藉を罰するためにその所領の有無を調査させている(「国分寺文書」)。このような事件を長弘がどのように処理したかは不明であるが、この時期の守護としてはこうした地頭領主を配下に取りこむ方向にあったから、一方的に抑圧する行動には出なかったのではないかと思われる。