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鷲頭氏の居館

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 ところで、守護に補せられて以後、長弘は周防国府の守護所に入部していたと思われるが、本拠鷲頭庄内の居館はどこに置かれていたのであろうか。御園生翁甫は『徳山市史』で、西峰旗岡山の西麓で切戸川の左岸に当たる殿ケ浴にあったとし、これより南に連なる土井は土居の転訛で侍屋敷があったところであるうと推測している。これに対して宝城興仁氏は、土井は殿ケ浴とかなり離れていて、間に森崎が突出し、その端は川が通じ、交通の便がすこぶる悪い地形であることや慶長の検地帳に土居河原・土井浜などと見えるので、開発の時期は相当下るものと思われることなどから、侍屋敷の場所は土井ではなく、居館があったとされる殿ケ浴付近とみている(「旧豊井村の地名の研究」『下松地方史研究』一五輯)。いずれにしても、遺構が確認されていないので、まだ推測の域を出ないが、最近この付近から十二~十三世紀の掘立柱建物跡・柱穴・杭痕・溝状遺構が発見された。
 一九八四年(昭和五十九)五月、下松バイパスの施工に先だち、山口県教育委員会が建設省山口工事事務所の委託を受けて調査発掘したもので、遺跡は下松公園の南東斜面上(下松市旗岡一丁目)の標高三三メートルのところにある。笠戸湾を眼下に見下ろせ、三方に視界が広がる。また北方二キロメートルのところには東西に近世の山陽道が通じ、近世以前の切戸川河口付近まで八〇〇メートルのところにある。このときの調査報告書『都町北遺跡』は、この遺跡を鷲頭庄の軍防上の要地、つまり鷲頭氏の出城か見張所ではなかろうかと推測している。その理由として、遺構が狭少で高地にあること、海岸低地に耕地が少なく、農村集落の広がりとは考えにくいこと、伴出遺物に日常雑器とは不釣り合いな輸入陶磁器が比較的多いことから一般住民の住居とは考えにくいなどの三点をあげている。

中・近世の遺跡周辺図
(山口県教育委員会『都町北遺跡』所収)