内藤氏は系図によると、御堂関白道長五代の後裔盛遠を始祖とする。盛遠は内供奉祐寛と末武の豪族福井検校大中臣光忠の女の間に生まれた第二子で、鳥羽天皇のとき内藤氏を賜わったとされるが、一説には盛遠の兄内舎人盛重が内藤氏を賜わったとも伝える。盛遠は筑前守に補せられ、従五位下を叙せられた。その子盛定、孫の盛家の時代は源平争乱期に当たる。『吾妻鏡』元暦二年(一一八五)正月六日条に収載される同元年十一月十四日付の源頼朝に宛てた範頼の書状に「内藤六か周防の遠石さまたけ候」とある内藤六は盛家のことで、このとき平氏に味方して石清水八幡宮領である遠石庄において範頼に抵抗した。遠石八幡宮所蔵の一三二〇年(元応二)の鐘銘に「元暦把戦の間、流矢がこれをうがち、後鯨魚を発すると雖も瓦礫を撞くが如し」とあるが、文中の元暦把戦のというのはこのときの戦いのことを指すのである。『吾妻鏡』建久二年(一一九一)正月十八日条に「御家人内藤六盛家」とあるから、この事件後まもなく盛家は源氏方に帰属したものと思われる。
一一九〇年(建久元)春以来、盛家は遠石庄内石清水別宮領に乱入して神人友国を刃傷し、神税を抑留したうえ、更に父盛定のときすでに不知行所になっていた得善(徳山市)・末武(下松市)両保を新儀をもって押領しようとするなど狼籍が絶えなかった。そこで、翌九一年源頼朝は院宣を奉じてその停止を命じている(「石清水文書」)。この盛家は盛定の第三子で、左衛門尉と称し、母慈妙尼から尾張国牧野・浅井両郷を譲与された。一二三一年(寛喜三)八月三日、七三歳で死没した。また系図には見えないが、都濃郡の地頭内藤九郎盛経という人物が東大寺造営に用いる材木の伐り出しを妨害したという理由で、一一八七年(文治三)三月一日在庁官人に訴えられるということがあった。盛家のあとは第七子盛時がついだ。母は摂津守師茂の女で、源実朝の乳母因幡局と伝えられる。肥後守に補せられ、後五位上に叙された。一二五四年(建長六)正月十九日、六五歳で死没した。
つぎの有盛は盛時の第二子で、童名を徳正丸、のち岩国小次郎ともいい、法名を覚阿と称した。有盛は父盛時から尾張国の牧野・浅井両郷と相模国の北畑之庄を伝領したが、このうち浅井郷を長男時信に、牧野庄と北畑之庄を二男時澄に譲渡した。有盛の妻は法名を仏心といい、前夫は弘中権正兼綱(法名白蓮)である。有盛と仏心との間にできた第一子が時信で、法名を生西といい、肥後に補せられた。妻は母仏心の先夫弘中兼綱の女である。母仏心は小周防(周防本郡)の地頭職を前夫兼綱から相伝していたが、のちこの遺領をめぐって、仏心の子宗像孫次郎宗氏(法名宗通)と時信の子盛兼との間で紛争が生じた。小周防の地頭職を仏心の子宗像宗氏が相続することについては、嘉元三年(一三〇五)九月八日付の関東の下知状に従って、徳治三年(一三〇八)八月二十七日長門探題北条時仲の施行状も出されていたのであるが、なおかつ紛糾したため、幕府は一九年(元応元)六月十二日これを中分して、東方の地頭職を盛兼に、西方の地頭職を宗氏に与えるという裁定を下した(『閥閲録』)。貞和六年(一三五〇)十二月、盛兼の曽孫盛世の言上状(『閥閲録』)に、所領として尾張国浅井郷・伊予国成吉別府・周防国勝間村のほか周防本郡東方の地頭職をあげているから、さきの幕府の裁定によって紛争は解決したのである。
盛兼の子盛秀は夭死して嗣子がなかったので、時信の二男で盛兼の弟盛信が宗家を継いだ。盛信は初め勝間田備前守忠保の婿養子に入り、忠盛と称していた。この盛信の第一子が盛世で、童名を徳益丸、のち肥後太郎、法名を智陽と称した。一三九一年(明徳二・正中八)二月八日に死没しているから、盛世の活動時期はまさに南北朝の動乱期にあたる。