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鷲頭氏の攻防と内藤氏

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 当時、中央の政局は北朝方と南朝方の対立に加えて、足利尊氏の執事高師直・師泰兄弟と尊氏の弟直義・直冬親子の対立が激化し、複雑な様相を呈していた。直冬は中国探題の職にあったが、高師直に追われて四国へ逃れ、その後、九州探題一色範氏を追って九州一円に一大勢力を築いたので、尊氏は高師泰に命じてこれを討たせた。一三五〇年(観応元・正平五)六月京都を出発した師泰は備後を経て石見に向かい、直冬方の諸豪族を攻めた。これに対して大内氏宗家も周防守護鷲頭氏も、ともに直冬方に属して戦った。このとき盛世は大内弘世に従って師泰の軍と戦い、その代官山内彦次郎通秀入道行聖を討った。このあと、盛世は代官真安孫三郎貞村を肥後詑摩に在陣する直冬のもとに派遣し、肥前塚崎から大宰府まで随従させている。
 同年十二月直冬は南朝方に帰順したが、大内弘世もまた翌年南朝方に帰順して周防守護に任ぜられたから、周防には南北両朝に分かれて二人の守護が対立し、都濃郡を舞台に激戦が展開されることになった。内藤氏は宗家の盛世・盛貞親子は大内宗家に、庶家の藤時・盛清兄弟は鷲頭氏に属して相争った。藤時は有盛の第二子時澄の孫にあたる。父は時清で、肥後次郎と称し、尾張国の牧野庄、相模国の北畑庄および美濃国船木庄の地頭職を領していた。
 戦いは、大内弘世の軍勢が鷲頭庄白坂山へ攻撃をかけた一三五二年(文和元・正平七)二月十九日に始まり、五四年ごろまでには終結したようである。戦況については後述するが、内藤藤時軍忠状(『閥閲録』)に、「最前より御方(鷲頭氏)のため所領の末武庄に城郭を構え、御敵の通路をさしふさぐの処」と記しているから、藤時はこの戦いに備えてすでに末武庄に城を築いていて、ここから鷲頭氏の加勢に馳けつけたのである。
 この末武城について、『地下上申』はつぎのように記している。
末武城山 高塚村之内
但往古末武何某と申人之居城にて御座候由申伝へ候、彼峯ニ壱町四方程平地之段有之、井之跡も御座候、且又東ニ当テ馬乗馬場(犬走り)と相見へ候て往来有之候事、

 御園生翁甫は『防長地名淵鑑』で、「末武城は末武弘藤の築くところか、或は又内藤藤時か何れとも決定し難し」としたが、『徳山市史』では一歩進めて、末武上の上高塚にある末武城山は内藤氏の築いた城山であろうとしている。その理由として、城山の南麓は末武下と鷲頭庄西豊井にまたがり、山麓に千人塚があって古戦場であったことが推定されるうえ、東の尾に古井の跡が認められることをあげている。さらに城山の西部平地(末武中)に残る堀・土井縄などの地名から、ここが内藤氏の居館跡ではなかろうかと推測している。
 これに対して宝城興仁氏は「末武村の研究」や「下松寺院沿革史」(『下松地方史研究』十七輯)でこれを否定し、『地下上申』の記述どおりこれを末武氏の居城とする。その理由は、城山の麓にある殿垣内・上寺垣内・上座主・下座主・天王などの地名から城下町であったことがうかがわれることや寺垣内にあった元真言宗で、のち浄土真宗に改宗した専明寺の付近から五輪塔が多く発見されたという古老の談からみて、この寺院は城主末武氏の菩提寺ではなかったかという推測による。また内藤氏の居館跡とする堀・土井縄についても、この付近はもと河原で、開発が遅れた地域であるから豪族の居住地としては不適当とし、内藤氏の居館跡は宮ノ原付近ではないかと推定している。その根拠として、地名がいかにも公家出身の内藤氏らしいことと、近くに受天寺・永城院・福円寺などの古刹があることなどをあげている。両説の当否は早急に決めがたく、考古学的調査の成果を待つほかない。