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末武氏と所領

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 末武氏は大内氏二〇代弘貞の二男で、弘家の弟弘藤を始祖とする。弘藤は末武保を領し、ここに山城を築いて居城とした。地名を冠して末武介三郎と称し、また法名を道如と号した。弘藤の子貞盛は弥三郎と称した。大内宗家の弘世と庶家鷲頭氏との間で、周防守護職をめぐって抗争が起こると、内藤氏の庶家とともに鷲頭氏を支援した。激戦の末、鷲頭氏は弘世の軍門に降ったが、これより約二〇年経った一三八〇年(康暦二・天授六)五月、弘世の子義弘が将軍足利義満の命により鎮西探題今川貞世の援軍として、九州の南朝勢力征討に参戦した留守中、義弘の叔父師弘が鷲頭筑前守(弘氏)らとともに石見・安芸の諸将と結んで反乱を起こした。この乱に加担した弘氏(貞盛の長子)は義弘軍と戦って戦死したので、弘氏の弟弘恒が貞盛のあとを嗣いだ。
 つぎに、末武氏の所領についてみておこう。一四六〇年(長禄四)十二月八日、弘春は大内教弘から長門国阿武郡大井郷内一五石の地(江木大炊助分)を預け置かれたが、その下知状(『閥閲録』)に「随武治(内藤)命可知行者也」とあるから、このころ内藤氏の配下に置かれていたことがうかがえる。弘春は大内政弘に従って上洛した一四六七年(応仁元)八月十日、摂津国河辺郡難波氷室の戦いで討死した。父の氏久は一四六一年(寛正二)四月二十日、豊前国下毛郡山国郷内の末国名・金丸名・太郎丸名の田地五町八反五代・畠地三反八代(伊福信濃守跡)を大内政弘から付与され(『閥閲録』)、更に一四七八年(文明十)八月二十三日弘臣は長門国豊東郡大野庄内一五石の地(飯田加賀守跡)を同じく政弘から宛行われた(『閥閲録』)。このときの理由は、さきに政弘が上洛した留守中、長門へ進出した東軍方の石見国三本松城主吉見信頼の軍と阿武郡地福で戦い、七一年正月一日弘臣の父氏久・舎兄の延忠・幸氏らがともに戦死したことに対する褒賞である。ついで八一年四月十三日、新三郎長安は大内政弘から長門国阿武郡大井郷内三〇石の地を宛行われている(『閥閲録』)。また一五四〇年(天文九)十一月十日、直氏はさきの大井郷内三〇石のほか同郡椿郷賀川津五石の地と豊前国京都郡吉田庄内堤村二〇石の地、あわせて五五石を子息忠氏に譲与している(『閥閲録』)。
 以上みてきたように、戦国期に入ると、末武氏の本領は従来の都濃郡末武から長門部へ移っていることが分かる。大内氏一族とはいっても、末武氏のように遅く分かれた庶家は本領を中心に大をなすことはなく、同族的なものから主従制へ組み込まれていった。

末武氏略系図