『多々良氏譜牒』によると、六〇九年(推古天皇十七)鷲頭庄青柳浦(下松浦)の松樹に大星が留まり、七昼夜にわたって赤々と輝り続けた。在地の人々はこの奇瑞をいぶかしんでいたところ神託あって、異国の太子の来朝を鎮護するために降った北辰(北極星)であると告げたので、これを妙見尊星菩薩と尊び、社を建立して祀った。三年後、周防国多々良浜に到着した百済の皇子琳聖太子は摂津荒陵(大阪市四天王寺)で聖徳太子に会い、太子から采邑として大内県を付与され、同時に多々良姓を賜わった。以後、その子孫は大内氏を名乗った。下松浦に祀られた妙見大菩薩は、その後桂本宮(宮洲)に移され、ついで高鹿垣(茶臼台)へ遷祀され、その後更に鷲頭山へ移され、山頂に上宮、中腹に下宮を祀った。のちこれを大内県氷上山に勧請したのは琳聖太子五代の孫茂村のときであると伝えている。
この縁起は、興隆寺の勅額と勅願寺の聴許を得るために大内政弘が作成させたもので、一四八六年(文明十八)十月二十七日自署を加えて天覧(後土御門天皇)に供したものである。この写本は鷲頭寺にも所蔵されているが、表題は『鷲頭山古記』と記されている。これとは別に当寺には『鷲頭山旧記』と『鷲頭山妙見縁起写』が伝えられている。前者は一八〇四年鷲頭寺権大僧都法印恵実が書写したものとしており、内容は『多々良氏譜牒』とほぼ同じであるが、細部にわたっては若干異なるところもある。後者は妙見社の神主金藤左衛門家に伝えられたもので、奥書に九六五年(康保二)八月金藤与一之進が作成したとしているが、妙見社の移転の時期が具体的になっている分だけ後の付会と考えられるし、神主の名前もまた平安時代のものとは考えにくいので、作成時期は大幅に時代が下ると思われる。しかし、前記の両縁起は『多々良氏譜牒』と別系統の旧記に基づいたとも考えられる。少なくとも『多々良氏譜牒』の原型は下松の妙見社に伝わる旧記であったことは間違いない。
この譜牒では大内氏の始祖を百済系帰化人としているが、琳聖太子後胤説の初見は第一編第六章1で述べたとおり、大内盛見が一四〇四年(応永十一)氏寺興隆寺の本堂供養を営んだときの願文に「当寺は扶桑朝推古天王治世の御宇、百済国琳聖太子建立の仏閣なり」(「大内氏実録」)とある記載である。したがって、大内氏が防長両国を統一した後に唱え始められたものであるから史実としての信憑性は疑わしい。