多々良氏が在庁官人として、初めて文献に現れるのは、一一五二年(仁平二)八月一日付の周防国在庁下文(「鳥居大路文書」)においてである。内容は京都賀茂神社の社領である矢嶋(上関町)の税を免除するというものであるが、この下文に署名した在庁官人九人のうち三人までが多々良氏であることから、このころすでに在庁に占める多々良氏の勢力の大きさをうかがうことができる。ついで一一七八年(治承二)十月五日、多々良盛保・盛房・弘盛・忠遠ら四人が流罪を免ぜられたことは前述したとおりである(本章、1)。更に一一八二年(養和二)四月二十八日野寺僧弁慶申状案(「東大寺文書」)に連署した在庁官人一〇人のうち最上位に権介多良(盛房)とみえる。権介という地位は国衙の目代の下にあって最高の在庁官人である。
大内氏は源平争乱にさいして源氏方を支援したが、源氏の御家人ではなかったから周防国の守護に任ぜられることはなかった。さりとて在庁官人でありながら東大寺の支配に対してかならずしも協力的ではなかった。一一八七年(文治三)二月、周防国内の御家人らが東大寺造営のための材木の搬出を妨げたとして、在庁官人が連署してこれを朝廷に訴えたが、この解状に連署した一三人の在庁官人の中にあって、権介多々良宿称(弘盛)はその最上位に署名している。その一方で、一一九一年(建久三)この弘盛自身が東大寺造営柱の搬出を妨げたとの理由で、重源によって鎌倉に訴えられるということがあった。これに対して幕府は、大内介(弘盛)は「関東所勘の輩に非ず」として、これを却下し、朝廷へ奏聞することを奨めている(『吾妻鏡』)。こうした相反する一連の行為は、大内氏が国衙機構を足場に在庁の諸豪族を配下に編成するためには、国司・目代との協力関係も必要としたからである。
一二五〇年(建長二)、幕府が奉行した京都閑院御所の造営に御家人同様、大内介(弘貞)もその分担を割り当てられており、また翌五一年与田保の地頭と公文との間で生じた争論のさい、六波羅は大内介に沙汰してこの処理に当たらせている(「東大寺文書」)から、このころ大内氏は実質的に守護に近い存在になっていたのである。
一三一一年(応長元)京都円通寺長老尊智上人心源が周防の国司上人に任ぜられると、翌年その目代道空房承元は阿弥陀寺田畠を回収してこれを東大寺に編入しようと企てたことから、これに反対した大内重弘以下在庁官人四一名は連判起請して結束し、承元の排斥運動に立ち上り、承元の追放と尊智の罷免に成功した。この事件は、東大寺のような庄園領主層にとって最も有力な庇護者であるはずの朝廷に、有利な裁断を下させるほどの実力を大内氏が備えていたことを物語っている。この実力の裏付けとなる大内氏の財力は『大内介知行所領注文(「東大寺文書」)』でうかがい知ることができる。
大内介知行所領 | |||
一所 矢田令 | 一所 宇野令 | 一所 佐波令 | 一所 国府浜 |
一所 小津馬嶋 | 一所 下右田 | 一所 富田保一分地頭 | 一所 大内村 |
一所 宮野 | 一所 本庄 | 一所 由宇郷 | 一所 通津郷 |
一所 横山 | 一所 日積村 | 一所 大海 | 一所 安主所職 |
一所 惣追捕使職 | |||
已上周防国 | |||
一所 参河国高須郷 | |||
一所 伊予国味須郷法師名 |
この所領注文の年代は不詳であるが、『新南陽市史』は鎌倉時代の初期には守護職をなお総追捕使と呼ぶことがあったから鎌倉時代の早い時期のものであるとみている。ところで、所領注文にあげられた大内氏の所領は周防国だけで一五カ所あるが、これは鎌倉時代に認められている国衙領のうち、実に二割以上にもあたるのである。
大内氏略系図