惣領家の大内弘幸と庶家で周防守護鷲頭長弘の対立はそのままその子弘世と弘直に引き継がれた。弘世は一三五〇年(観応元・正平五)ごろ南朝に帰順し、南朝から周防守護に補せられたので、この結果、周防には二人の守護が併存することになった。翌五一年弘世は庶家の陶弘政を吉敷郡陶から富田保に移し、ここを鷲頭庄攻略の前進基地とした。富田保に入部した弘政はただちに富岡の武井(徳山市)に居館を設け、その南に城郭を築いて鷲頭攻撃に備えた。弘世は長弘が死去した好機を把え、五二年(観応三・正平七)二月、一気に軍事的攻勢をかけた。
鷲頭長弘の三男貞弘と行動をともにした内藤氏の庶家藤時の軍忠状(『閥閲録』)によると、戦いの様子は以下のとおりである。二月十九・二十日の両日、弘世の軍が鷲頭庄に押し寄せ、白坂山に陣取り、激戦を展開した。ついで閏二月十七日重ねて高鹿垣城を攻撃してきたため、藤時は所領の末武庄に築いていた末武城から馳せつけ、弘世の軍と戦った。ついで十九日新屋河内・真尾(光市)でも合戦が行われ、この時藤時の舎弟新三郎盛清が討死した。三月六日弘世は父弘幸が病没したため、一時、軍事行動を停止したが、ふたたび二十七・二十八両日新屋河内・真尾で合戦が再開された。このとき若党辻与次が左肘に疵を負い、中間弥次郎は左の二の腕に射疵を受けた。四月九日から二十九日に至る間、重ねて押し寄せた弘世の軍と白坂山を中心に連日戦いが繰りひろげられたが、このとき若党中村兵衛次郎が左膝に射疵を受けた。八月三日の戦いでは弘世方の日積弥次郎の首級をあげることができたが、藤時側も若党松永又四郎入道道智と中間の弥三郎が討死した。
以上が藤時の軍忠状にみえる戦況であるが、この戦いの主戦場は下松市西部の白坂山を中心に高鹿垣から新屋河内・真尾へと南東に伸びる三カ所である。『防長地名淵鑑』は、白坂山について「久保村字大河内の西北に迫の字地あり。其地内花岡村の大字末武北村との境界線に城山及び高壺山の連互せるあり。付近一帯の山頂白禿にて、先年久保花岡両村共同にて砂防の為にハゲシバリの樹を植えたることあり。花岡村にては此地方を白迫と称ふ」と記している。また高鹿垣は鷲頭寺所蔵の文化年間の画幅に茶臼台を高鹿垣とするをもって茶臼台のことと断じている。白坂山と高鹿垣の位置関係は、間に旗岡山をはさんで、約二キロメートル北方に白坂山、一・三キロメートル南東に高鹿垣がある。白坂山は眼下に鷲頭庄を見下ろすことができ、高鹿垣は西方に笠戸湾を一眺することができて、ともに鷲頭庄の防衛上、重要拠点といえる。新屋河内・真尾は高鹿垣から五キロメートル東方にあたる。