大内氏系図によると、陶氏は大内氏の一族で、大内氏一六代盛房の弟盛長を祖とする右田氏の流れをくみ、右田氏五世重俊の弟弘賢のとき、吉敷郡陶村を領して陶氏を称した。その子弘政のとき陶村から都濃郡富田に居を移したとされる。
陶氏が東大寺領富田保の地頭職を得た時期は弘政が富田に入部したとき大内弘世から付与されたものであろうと推測されている(『新南陽市史』)。それは鎌倉期の「大内介知行所領注文」に富田保一分地頭とみえるからである。記録の上では、一三八九年(康応元・元中六)九月二十二日弘政の子弘長が将軍義満から富田保の地頭職を安堵された(「東大寺文書」)とあるのが最初である。以後、陶氏はこの地頭職を軸にして、東大寺と紛争を重ねながら着実に在地領主化していくのである。一五〇九年(永正六)周防の国衙領三四カ所を還付された東大寺が、九代興房に対して年貢の未進などある場合は当保の地頭職を召し上げられても異存はないとの誓約をさせた上で、あらためて当保の地頭職に補している(「東大寺文書」)。そのことからみても、陶氏の在地支配力の強大さをうかがうことができる。
弘政が富田に移った時期は明らかでないが、一三五一年(観応二・正平六)ごろのことと考えられている。その理由は翌五二年から大内弘世が鷲頭氏の拠点鷲頭庄に進撃を開始するからで、その前進基地として富田保を軍事的に補強する必要があったからである。弘政は居館を徳山市下上武井の平城(ひらじょう)の地に置き、その南に城郭を構え、更にその南部の土井に家臣団の集住地を設けた。また富田川の河口の富田浦は鎌倉期以来、国衙領の年貢米や木材を積み出す周防中部の要港として知られていた。
三代弘長は大内盛見から長門守護代に任ぜられたが、これは四代盛長・五代盛政と伝えられた。盛政はのち大内持世から周防守護代に補せられた。以後、六代弘房・七代弘護とこれを継いだ。弘房・弘護の時代はちょうど応仁の乱の最中にあたる。弘房は初め一族の右田弘篤の家名を嗣いだが、兄弘正が芸州国府において戦死し、男子がなかったので、陶家に復帰して家督を嗣いだ。一四六七年(応仁元)京都で大乱が勃発すると、中国地方では大内政弘が西軍山名持豊(宗全)を支援し、石州津和野三本松の城主吉見信頼は東軍細川勝元に属して対抗した。弘房は大内政弘に従って上洛したが、翌六八年十一月十四日相国寺の戦いで戦死した。弘房のあとは若年の弘護が嗣いだ。六九年(文明元)三月、大内政弘の伯父教幸が赤間関で挙兵し、東軍細川勝元に呼応して安芸に向かって東進の軍を起こすと、政弘の留守を預る弘護は鞍掛城(玖珂郡玖珂町)においてこれを阻んだ。敗れた教幸は芸州を経て石州に入り、吉見信頼を頼った。兵を立て直した教幸は今度は阿武郡に進出したが、翌年ふたたび弘護に敗れて豊前に逃れ、馬岳城(福岡県行橋市)において自害した。陶氏の居城若山城が構築されたのは、この七一年のことで、吉見信頼に同心する仁保氏の進入に備えて、西北部の守りを固める必要に迫られたものであろうと推測されている(『新南陽市史』)。