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陶氏と大内氏

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 京都の大乱がおさまった一四七七年(文明元)、弘護は一〇年ぶりに帰国する大内政弘を楊井津まで出迎え、富田の私邸に招いて饗応した(「弘護肖像賛」)。翌年、政弘は吉見信頼と和解し、弘護に対しては筑前の守護代に任じてその功に報いた。八二年五月二十七日、政弘は山口の築山館で祝宴を催したが、この席で弘護は吉見信頼と刃傷沙汰に及び、互いに死没した。弘護の死後、子の武護が嗣いだが早世し、二男も夭折したので、三男興房が家督を嗣いだ。一五〇八年(永正五)大内義興が前将軍義稙を奉じて東上すると、興房もこれに従って行動をともにした。一一年船岡山の戦いで戦功をあげ、翌年尾張守と任ぜられた。二二年(大永二)からは歴年安芸・備後の各地に転戦したが、芸州門山の陣中で義興が病いに倒れたため、二八年(享禄元)の七月山口に帰還した。十二月に義興が死去すると、このあと義隆が嗣いだ。三二年(天文元)以来、興房は義隆に従って九州の少弐氏攻略に参加するなどしたが、三九年四月十八日病没した。このとき嫡子興昌はすでに死没していたので、二男の隆房が家督をついだ。隆房は五一年(天文二十)大内義隆を襲って自殺させたあと、義隆の姉の子大友晴英(のち義長と改名)を迎えたが、このとき晴英の一字をもらって晴賢と改めた。晴賢もまた五五年(弘治元)十月一日安芸国厳島において毛利元就に討たれた。このとき晴賢の嫡子長房は若山城を守っていたが、同月七月さきに晴賢によって殺された杉重矩の子重輔兄弟に急襲され、城を脱出したが、菩提寺竜文寺(徳山市長穂)において自殺した。長房の子鶴寿丸は家人野上房忠の背に負われて山口に逃れた。大内義長らとともに山口から長府に落ちのびたが、毛利軍の急追にあって、五七年四月三日、長福寺(現功山寺)において義長らとともに自害し、ここに陶氏は断絶した。

陶氏略系図