野上氏の出自は明らかでない。「野上勘兵衛雅孝家譜録」によると、琳聖太子二二代大内重弘の六男弘国を始祖とする。周防国都濃郡野上庄に居住し、その在名をもって野上氏を称するようになったと伝えるが、大内氏系図には弘国は見えない。弘国のあと、六代義忠・隆忠・政通を経て房忠と続くが、記録の上で実在するのは房忠だけであるから、この系譜は信用しがたい。
野上氏が記録に現れるのは、『花営三代記』の記述が最初である。これによると、一三八〇年(康暦二・天授六)大内義弘が叔父師弘と芸州内郡で合戦したとき、鷲頭氏らとともに師弘に加担して戦い、討死した二〇〇余人の中に野上将監・同雅楽助の名前が見える。しかし、その系統は不明である。
一四六一年(寛正二)七月二十四日付の周防守護代陶弘房の執達状(『閥閲録』)の宛名に野上隠岐守とあるから、隠岐守は周防小守護代であろう。応仁の乱が勃発すると、大内政弘は西軍に応じて、五月海賊衆先陣野上・倉橋・呉・稽古屋のほか周防・長門・豊前・筑前・筑後・安芸・石見・伊予など八カ国の兵を率いて東上したが、この留守中政弘の叔父教幸は東軍に呼応して挙兵した。留守を預かっていた周防守護代陶弘護はこれを攻めて滅ぼし、教幸に加担した石見国津和野三本松城主吉見信頼の動きに備えた。一四七二年(文明四)十月十六日、石見国益田七尾山の城主益田貞兼の家臣下部丞・寺戸備後守・岩本筑後守・吉田修理進ら四人に宛てて、陶弘護の家臣野上備前守景郷・立村藤右衛門尉房家・同因幡守重家・江良丹後守重信・山崎伊豆守秀泰ら五人が連署した起請文を送付した。その内容は、以前貞兼と盟約した筋目は不変であること、吉見信頼が当方に対して不義を行った以上、今後どんなに懇望されても許容しないこと、このように一同申し合わせた上は、万一、貞兼が攻撃された場合は一致してこれを支援するというものであったが、この起請文に連署した陶弘護の家臣中に野上備前守景郷の名が見える。このほか一四七六年・七八年の文書に見える野上平太郎は陶弘護の小守護代、『房顕記』の大永五年(一五二五)条に見える野上右馬前は陶護忠の小守護代、一五二九年(享禄二)九月三日の文書に見える野上房忠は陶興房の小守護代である。
以上のような陶氏とその有力家臣野上氏の関係からみて、南北朝期の大内氏一族の内訌に備え、大内弘世は一三五一年(観応二・正平六)吉敷郡陶の領主陶弘政を富田に移して以来、鷲頭長弘に対する攻撃の前進基地として野上庄に有力な被官を置いた。これが野上氏であろうと推測されている(『徳山市史』)。
一五五一年(天文二十)大内氏に謀叛を起こし、義隆を倒した陶晴賢は、豊後から大友晴英(のち義長)を迎えて、これを立てたが、五五年(弘治元)毛利元就と厳島で戦って敗れ、自害した。このとき野上房忠は、吉見正頼の攻撃に備えて長門渡川城(阿東町)を固めていたが、陶氏を破った毛利氏はその勢いに乗って周防へ進出し、陶氏の残党が拠った都濃郡須々万の沼城(徳山市)を攻略した。ついで陶氏の居城若山城を抜いて防府に本陣を構えると、吉見氏の攻撃も一段と激しさを増してきたので、房忠は渡川城を退いて山口の鴻峯城に立て籠っていた大内義長軍に合流した。これに対して、吉見軍が宮野口から、氷上の砦を攻略した右田岳の城主右田隆量があいついで山口に迫ったため、義長は最後の拠点として、内藤隆世の勝山城(下関市)に撤退した。五六年(弘治二)四月二日、勝山城も毛利軍の攻撃を受けると、進退極まった大内義長・内藤隆世はそれぞれ自害した。房忠は陶長房の遺児鶴寿丸を守って、義長らと行動をともにしたが、このときみずからも鶴寿丸とともに自害して果てた。