杉氏の出自は明らかでない。杉氏が都濃郡と関係をもったのは一五五七年(弘治三)のことで、この年旧領の佐波郡大前・植松(防府市)に加えて野上・遠石の両庄(徳山市)を杉元相が毛利氏から支給されたことによる。野上庄はもと野上氏の本領であったが、野上房忠が天文の変に主君陶晴賢に与し、毛利氏の防長進出にさいして、晴賢嫡孫鶴寿丸を奉じて最後まで抵抗し、五六年四月、大内義長・内藤隆世らとともに長府の長福寺において陶氏に殉じた。これに対して、杉元相はこれに先立つ五五年三月、周防に進出した毛利氏に帰順したため、その論功行賞として両庄を加増されたものである。元相は初め隆相といい、勘解由判官と称したが、帰順後毛利隆元の一字を授かり、元相と改名した。以後、野上庄の金剛山の山麓に居館を構えた。東川を狭んで東側の一ノ井手に、七四年(天正二)七月曹洞宗興元寺を建立し、これを菩提寺とした。元相のあとを継いだ嫡子元宣は毛利輝元に仕えたが、八九年(天正十七)三月六日非業の最期を遂げた。元宣の妻は児玉三郎右衛門元良の女であったが、彼の死は美女の誉れ高いこの夫人に原因すると伝えられる。元宣の死後、輝元の側室になり、秀就・就隆を産んだ。いわゆる二の丸である。杉家は元宣の急逝後、同族の元常を養子に迎えたが、彼の死後断絶した。
大内氏の隆盛期には杉氏一族は八本杉といわれ、陶・内藤氏とともに大内氏三家老として大内氏を支えた。大内弘世代に杉又次郎入道智静(一三八〇年五月十日に戦死)、義弘代に杉大炊允儀安・同四郎範安親子が長門守護代に任ぜられている。これは宗家である。このほか、一四六〇年(長禄四)十一月二十五日・六二年(寛正三)十一月二十五日の執達状に見える杉伯耆守重綱および一五二九年(享禄二)七月二十一日の執達状に見える杉七郎重信は豊前守護代、また二四年(大永四)正月二十一日の執達状に見える杉弾正忠、『肥陽軍記』に見える杉豊後守興運は筑前守護代に任ぜられている。いずれも庶家である。
一四〇七年(応永十四)大内盛見署判一切経勧進帳に載せてある奉加者の氏名と奉加額を見ると、「杉弾正忠重貞(二千疋)、杉伯耆守重綱(同上)、杉駿河守重宣(千疋)、杉掃部助重治(三百疋)、杉三郎重茂(同上)、杉四郎範安(三百丸)、杉十郎重村(同上)、杉氏三人(百疋宛)」とあり、奉加者五八人中一〇人が杉氏で、奉加額からみても、最高二〇〇〇疋の拠出者は陶三郎盛長と鷲頭道祖千代丸の外は杉氏の二人だけであることから、当時すでに大内氏領国の中で占める杉氏の位置の高さをうかがうことができる。
元相の系統も庶家であるが、大内氏の配下で侍大将を勧めるなど杉氏繁栄の一翼を担った。元相の父隆宣は一五四三年(天文十二)五月七日尼子氏と戦って出雲で戦死している。祖父興相は大内義興に、曽祖父弘相は大内政弘・義興の二代に仕えた。
宗家の重矩(のり)は陶晴賢と対立してはいたが、天文の変では行動をともにした。のち再び対立して自領の長門国厚狭郡万倉に逃れたが、晴賢に攻められて自殺した。晴賢自身も厳島で毛利元就と戦って敗れ、自殺した。一方、重矩の子重輔・正重兄弟は晴賢の嫡子長房を若山城に攻めて自殺させたが、彼らもまた内藤隆世によって討たれた。こうして八本杉といわれた杉家も、この戦乱に生き延びえたのは、わずかに庶家の元相流と宗家の重輔の子松千代(重良)の両家だけであった。