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大内氏の防長統一

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 大内氏が防長両国を統一して発展の基礎を築いたのは、二四代弘世の後半から二五代義弘の前半にかけての南北朝時代であった。
 弘世は一三五二年(観応三・正平七)三月に父弘幸の跡を継いで南朝方の周防国の守護に任ぜられるが、これに先立つ同年二月に北朝方の周防守護に任ぜられていた一族の鷲頭弘直とその一味を本拠地の都濃郡各地に攻めた。二月十九日から二十日にかけて弘直の弟貞弘を下松市域の白坂山に討ち、ついで翌閏二月十七日に高鹿垣にも戦った。その後都濃郡から熊毛郡の各地に転戦して、一三五四年(文和三・正平九)ごろまでに弘直とその一味を討ち、周防国を平定して守護職を惣領家のもとに回復した。弘世は鷲頭氏討伐にあたって、一族の陶弘政を五一年(観応二・正平六)に吉敷郡陶(山口市)から都濃郡富田保(新南陽市)に移して鷲頭氏攻略の拠点にし、以後陶氏を周防国東部の重鎮とした。周防国を平定した直後に、弘世は本拠地を大内村(山口市)から山口に移したが、しばらくは隣国の北朝方長門守護厚東義武との戦いに明け暮れて、山口の経営は思うにまかせなかった。五八年(延文三・正平十三)正月に厚東義武を豊前国に追い、同年六月に南朝方の長門守護も兼ねることになった。ここに周防・長門両国が大内氏のもとに統一されたのである。
 防長両国が南朝方の大内氏によって統一されたことは、北朝方にとっても、九州の戦局に及ぼす影響が大きかったので、足利尊氏は九州探題の斯波氏経を通じて、弘世の北朝方への参加を誘いかけた。弘世にとっても、今後の防長両国の支配を有利に展開する道でもあったので、六三年(貞治二・正平十八)のころ、細川頼之の調停に応じて、周防・長門両国の守護職を認めることを条件に、幕府方に転じた。このため、これまで味方であった九州の菊池・秋月氏らの南朝方の武将を敵に回すことになり、翌六四年二月には北九州の馬ケ岳・香春岳に戦って敗れ、厚東義武に長門国を返還することを条件に和睦して、山口に逃げ帰ったほどであった。その後しばらくは厚東氏を支援する勢力との間に、関門海峡をはさんで熾烈な抗争が続けられた。
 山口に帰ってしばらくして、弘世は初めて上洛して将軍足利義詮に謁した。これ以後大内氏は上洛して将軍に従うことが多くなった。このとき、数万貫の銭貨や新渡の唐物を将軍や近侍の者に贈って評判になったといわれる(『太平記』)。帰国したのち本格的に山口の経営に乗り出し、京都から八坂神社や北野天神を勧請して、後年「西の都」と称せられた山口の発展の基盤をつくった。このころすでに対外貿易により巨利を得て、安定した経済力を誇っていたという。
 京都から山口に帰って間もないころ、弘世は石見国の守護に任ぜられ、さらに安芸国にまで勢力を伸ばしたが、九州探題今川貞世(了俊)と衝突して、幕府の貞世援助の要請を拒否したため、七六年(永和二・天授二)に石見の守護職を没収された。
 一三八〇年(康暦二・天授六)十一月十一日に弘世は没し、嫡男義弘が跡を継いだ。義弘は若いころから父を助けて各地に出陣していたが、七一年(応安四・建徳二)以来、九州探題今川貞世に従って、九州北部の各地で南朝方の諸軍と戦った。その功により、父弘世以来の周防・長門の守護職に加えて石見を回復し、新たに豊前の守護職に補された。
 今川貞世の九州下向途次の日記『道ゆきふり』によると、貞世は玖珂郡の多田・岩国(岩国市)を通って七一年(応安四)九月二十二日に熊毛郡の海老坂(呼坂、熊毛町)の寺に泊まり、都濃郡の遠石浦(徳山市)を経て富田浦(新南陽市)に宿し、同二十四日に国府(防府市)に到着したとある。その行程からみて、呼坂から市域の生野屋・末武の山陽道を経由して、遠石に向かったことが推定される。また十一月十三日の記事には、「周防のくた松」と下松浦のことが見える。
 義弘は、父の跡を継ぐ直前の一三八〇年(康暦二・天授六)五月十日に、長門国で敵対した守護代杉智静を長府(下関市)の栄山に破り、ついで二十八日には、叔父の師弘が反対勢力を結集して挙兵したのを安芸に討った。この時、一族の鷲頭筑前守父子三人や末武新三郎など下松市域に地縁のある諸将も討たれている(『花営三代記』)。このようにして内部の結束を固め、防長の諸士をその支配下におさめ、家臣団としての組織化を進めている。
 また、一三八九年(康応元・元中六)に厳島参詣に下向した将軍足利義満を、三月十二日に下松の泊に迎えた大内義弘は、領内を案内して歓待し、ついで帰洛に随行して上洛している(『鹿苑院殿厳島詣記』『鹿苑院殿西国下向記』)。
 一三九一年(明徳二・元中八)十二月には、有力守護山名氏清の討伐に功をあげ(明徳の乱)、翌九二年正月に、山名氏清の旧領のうち和泉・紀伊二カ国の守護職を与えられた。ここに大内氏は、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊六州の守護職を兼ねる有力守護として、その勢力を伸ばした。さらに、同年閏十月には、義満の命によって南北朝の合一を実現させ、その功績によって翌九三年には準一族に遇され、室町幕府内に重きをなした。その背景には、朝鮮貿易によって蓄えた巨大な経済力があったという。