このような大内氏の強盛に対して、幕府の内部にもこれを押さえようとする動きが起こった。義弘はこれに対抗して一三九九年(応永六)十一月に挙兵したが、敗れて十二月二十一日に泉州堺で戦死した(応永の乱)。この乱に野上豊前が参加して奮戦していることからみて、都濃郡の将士もかなり参戦したものと思われる。
義弘のあと、大内氏勢力の分断を図った幕府方の策動により、弟の盛見と弘茂の兄弟が家督を争うことになった。応永の乱に際して、義弘は分国の統治を盛見に依頼し、末弟の弘茂を従えて上洛したが、弘茂は義弘の死後に幕府に降った。そこで幕府は、大内氏から豊前・石見・和泉・紀伊の守護職を削り、弘茂を防長二州の守護に任じ安芸・石見の将士とともに、兄盛見の討伐を命じた。一四〇〇年(応永七)七月、弘茂が盛見討伐のために下向してきたので、盛見は難を避けて豊後に遁れ大友氏を頼った。
翌一四〇一年十二月、盛見は兵を整えて長府に帰り、四王司山の毘沙門堂に弘茂軍を破り、ついで盛山城に追撃して弘茂を滅ぼした。翌年一月には山口に帰って防長を回復し、兄義弘の跡を継いで二六代当主となった。幕府もその実力を認めて、翌一四〇三年七月に盛見を防長両国の守護に任じた。ついで豊前の守護を兼ね、さらに筑前にまで勢力を伸ばし、四カ国の守護を兼任することになった。
一四二九年(永享元)十一月、盛見は将軍足利義教から筑前の管轄を委ねられたが、その主導権をめぐって、翌三〇年いらい大友・少弐・菊池連合軍と争うようになり、三一年六月二十八日、少弐氏と筑前深江に戦って敗死した。
盛見は、縮小された領国の回復を図るなど武人としてもすぐれていたが、兄義弘の死によって中絶していた朝鮮貿易を復活し、巨富を得て、その経済力で分国の整備や大内文化の発展に尽くした。
盛見の跡を甥の持世・持盛兄弟(兄義弘の子)が家督を争って対立し、大内氏の家中は二分された。幕府は同年十月に持世の家督を承認して周防の守護に任じ、弟の持盛を長門の守護に補した。しかし、長門国が持世の支配下にあったため、持盛は従弟の満世と謀って、翌三二年二月に豊前国で持世と戦ってこれを破り、石見に敗走させた。
ところが、安芸・石見の守護山名氏や豊後の大友氏など近隣の守護大名たちが幕命によって持世を支援したので、持盛・満世軍は苦戦に陥り、ついに三三年四月八日に持盛は豊前国篠崎城に敗死した。続いて四月二十日には京都に遁れていた満世も討たれて、持世のもとに周防・長門・豊前・筑前の領国は統一された。その後も毎年のように九州の北部で少弐・大友氏らと戦い、十分に領国を治める間もないうちに、一四四一年(嘉吉元)六月二十四日、将軍義教が播磨守護赤松満祐に暗殺されるという事件(嘉吉の乱)が起こり、持世もこれに巻き込まれて重傷を蒙り、七月二十八日に京都で没した。
持世の跡を盛見の子で持世の養子となった教弘が継ぎ、周防・長門・豊前・筑前の守護となり、さらには安芸・石見・肥前にまで領域を拡大した。このころ大内氏の分国支配は一層進展し、朝鮮貿易で得た財力で山口市街の整備につとめ、大内屋形の北に新たに筑山館を造営して、上杉憲実や雪舟などの文人・墨客を招き、「西の都」山口に大内文化を開花させる基盤をつくった。
一四六五年(寛正六)、教弘は讃岐の細川勝元と対立していた伊予の河野通春を支援して、嫡子の政弘とともに伊予に出陣したが、陣中で病にかかり、九月三日に同地の興居島(ごごじま)(松山市)で没した。