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応仁の乱と大内氏

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 二九代政弘は、父の遺領を継いで周防・長門・豊前・筑前の守護となり、引き続き河野氏を援助した。そのため幕府は翌十月に政弘追討の命令を出した。河野・細川両氏の争いが、細川・大内氏の対立にまで発展した背景には、瀬戸内海の制海権と、対明貿易の利権をめぐる深刻な対立もあった。
 一四六七年(応仁元)一月に、将軍家や管領家の斯波・畠山氏の継嗣問題に端を発した応仁の乱が起こると、政弘は伊予の河野通春とともに西軍の山名持豊(宗全)方に参加し、東軍の細川勝元に対抗した。同年六月に長門二宮(忌宮神社、下関市)に戦勝を祈願し、分国の兵を率いて上洛の途についた。七月に備中下津井(倉敷市)で細川勝元軍を破り、八月に入京した。以後一四七七年(文明九)十一月までの前後一一年間、政弘は京都に滞陣して畿内の各地に転戦した。政弘の不在をねらって、東軍の細川方は大内氏の後方攪乱を図った。七〇年(文明二)三月には、政弘の伯父教幸が東軍の石州津和野三本松城主吉見信頼に誘われて赤間関(下関市)に挙兵した。これに長門守護代の内藤武盛や周防国の仁保盛安・同弘有らの大内氏重臣が加担したため、京都在陣中の諸将の間にも動揺が起こった。さらに、九州では筑前に少弐教頼、豊前に大友親繁軍が侵入して、大内氏の分国は危機に直面した。このような情勢のなかで、政弘の留守を預かる一族の陶弘護は山口の守備を固めて動ぜず、教幸軍を防長の各地で撃破して豊前に追い、ついに翌七一年十二月にこれを豊前国馬岳城に敗死させた。
 応仁の乱は一四七七年に至ってようやく鎮まり、政弘も十一月には山口に帰った。その後は領国の経営に意を用い、また戦乱を避けて京都から山口に来住した三条公敦・雪舟・宗祇などの文人たちを保護して大内文化の発展に貢献した。九四年(明応三)の秋に病を得て家督を嫡子の義興に譲り、翌九五年九月十八日に山口で没した。
 政弘の跡を継いだ義興は、父の遺領周防・長門・豊前・筑前に加えて、安芸・石見の守護も兼ね、さらに管領代として山城の守護も兼任して、その勢力は一段と強まった。義興の一生は、ほとんど戦陣のうちに明け暮れ、内外ともに多難な生涯であった。その前半は、一族や家中の内訌に悩まされながら、少弐・大友氏らと筑前や豊前の地に戦い、後半は出雲の尼子氏と安芸・備後に戦った。また、一五二三年(大永三)には遠く明国の寧波の地で対明貿易の利権をめぐって、細川方の商人と争う寧波の乱も起こり、心の休まる暇もなかった。
 一四九九年(明応八)十一月、前将軍足利義稙が管領の細川氏に追われ、義興を頼って山口に下向してきたのを迎えて、山口の郊外に居館を設けて厚くこれを遇した。一五〇七年(永正四)六月、細川政元が家臣のために殺されたのを知り、この機に乗じて、十一月に義興は義稙を奉じて東上の途につき、翌一五〇八年四月に入洛して将軍足利義澄と細川澄元を追い、七月に義稙を将軍に復職させた。義興は管領代として山城守護を兼ねて将軍を補佐することになり、一五一八年十月に山口に帰るまでの一〇年間を京都で過ごした。
 義興の長期にわたる在京の隙をついて、安芸国には出雲の尼子経久が侵入して、大内氏の分国を脅かしていた。帰国した義興はみずから陣頭に立ち、一五二一年(大永元)いらい安芸・備後の各地で尼子氏と戦ったが、一進一退の戦況のうちに、二八年(享禄元)七月に安芸門山の陣中に病を得て山口に帰り、同年十二月二十日に没した。