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統治の機構

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 大内氏の分国支配は、二四代弘世のときに山口に守護所を設け、いらい山口が政治の中心となった。山口の町づくりは着実に進められていったが、弘世から二七代持世の時期にかけては、一族間の争いや幕府との対立などもあって、その支配力が拡大されていった領国全域には十分に行き届いていなかったようである。
 守護所には政所・奉行所・侍所・記録所などが置かれていた。政所では譜代重臣の評定によって領政の基本方針を決定し、奉行所がそれを受けて政令を発し、各分国の代官に伝えて執行させた。侍所は家臣の進退や検断をつかさどり、記録所は記録の作成・保管などの仕事にあたった。
 大内氏の領国が拡大するにつれて、その統治は各分国に置かれた代官の守護代に委任された。大内氏の場合、数カ国の守護を兼任していたので、守護代の権限は一国の守護の権限に匹敵し、分国の軍事・警察権を掌握していた。周防国の守護代には、古くは宇野・問田・安富・中村氏などが任ぜられていたが、大内持世の代に陶盛政が守護代に起用されてからは、文明初年に弘中将監が登用された一時期を除いて、弘房・弘盛・興房と陶氏が世襲した。守護代は筑前の守護代が現地に常駐するほかは山口在住を原則とし、大内氏の政治の中枢に参画していた。
 守護代のもとには小守護代が置かれて守護代を補佐し、守護代が留守のときにはその職務を代行した。小守護代ものちにはしだいに世襲化して、守護代の被官になることが多かった。周防国では、守護代陶弘房のころから、陶氏の本拠地富田保(新南陽市)に隣接する野上庄(徳山市)の野上氏が代々小守護代として起用されている。
 小守護代のもとには守護使・郡代・段銭奉行などがあった。守護使は諸郡の田畠を検査して租税の督促に当たり、郡代は担当する郡内の年貢の徴収をはじめとする庶務を取り扱い、段銭奉行は段銭の賦課・徴収などの仕事を行った。
 領内には、武士としては大内氏と直接の主従関係をもつ御家人と、大内氏には従わずに自立した生活を営む非御家人とがいた。御家人は厳しい統制も受けたが、一方では直属家臣として身分を保証され厚遇もされた。武士のほかには、凡下あるいは甲乙人・地下人などと呼ばれる農民を中心にした庶民がいた。