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大内家壁書

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 大内氏は、分国の統治を進めていくうえで必要な法令を、たびたび制定している。なかでも、教弘・政弘・義興三代の法令をまとめた『大内家壁書』は代表的なものである。壁書とは、必要に応じて布令を守護所の壁に掲示して、領民の生活を規制したものである。
 『大内家壁書』には、領政全般にわたるもの、家中の諸士に宛てたもの、寺社に対する布令、領民への指示など、さまざまなものが含まれているが、ここでは領政全般にわたるものと家中へのものについて、いくつか紹介しておこう。
 一四五九年(長禄三)五月、山口で夜中に大路を往来すること、辻相撲をとること、路頭で女をとること、夜中に湯田の湯に入ること、京様と号して異装をすること、みだりに他国者を召し使うことなどを厳禁して、分国中にこれを守ることを命じている。これは風俗の矯正とともに、大内氏居館のおかれた山口市中での規律を重視したものである。
 一四六一年(寛正二)六月には、周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見・肥前など、分国中の諸郡から山口までの行程日数と、請文到来の日限を定めた。これは守護所からの召喚状が届いて山口に出頭するまでの日数、および召文に対して請文を提出する日限を定めたものである。それによると、都濃郡は行程二日、請文到来日限一一日となっている。周防国では大島郡島末(東和町)の行程五日、請文到来日限一五日が最も長い。分国内で最も短いのは周防国佐波郡・吉敷郡、および長門国厚東郡の行程一日、請文到来日限七日である。最も長いのは肥前国神﨑郡の行程八日、請文到来日限二一日で、筑前・安芸・石見国がこれに次ぐ。
 また、翌一四六二年十一月には、分国中の年貢の麻布および売布の寸尺を定め、一四八四年(文明十六)五月には、金銀の比価を一両=四匁半と公定し、翌八五年四月には撰銭令を出して、分国内の通貨の安定を図っている。さらに、八六年四月には、夜中の大道往来に制限を加え、異相不審の者を制止し、旅人はその宿所を糺したうえで通行を許可することにした。また、薦僧・放下師・猿引などを山口から追放し、職人でも諸人の被官でもない他国者を山口に寄宿させることを厳禁した。翌八七年四月には、長具足や弓・靫を帯したり、笠・羽織・十徳・頰かむり・中帯の異相のままで、あるいは笛・尺八を吹きながら夜中に路頭を往来することを禁じ、違反者は厳罰に処することを命じている。そのため、同年七月には夜廻人数番帳も定めて警備を厳重にしている。そのほかにも、徳政や押買狼藉などについても細かく規定している。
 家中諸士の統制も厳重であった。一四六〇年(長禄四)十一月には、御家人が非御家人の子を養子にすることを禁じ、一四八七年(文明十九)七月には、諸人の郎従が御家人を競望することを厳禁した。この二つの法令は、御家人の筋目を正し、主従関係の緊密化を図ったものであろう。
 これよりさき、一四八五年十一月には、山口奉行所への諸役人の出仕について、その人数や番帳および掟を定めて、細かく規制している。さらに同年十二月には、分国中の家臣に対して平時の山口出仕を義務づけ、少分限者については在国を一〇〇日に限った。残りの二百数十日は山口で過ごすよう規定したのである。これに違反した場合には、一〇日につき一貫文、一〇〇日に一〇貫文の過怠料を納めさせることにし、この処置に従わない場合には、各自の恩給地を没収することにした。しかし、これは十分に守られなかったらしく、翌八六年十二月には、内密に在宅する者に対しては御家人を追放するときつく申し渡している。また、勘気を蒙った御家人の取り扱いや、喧嘩両成敗の処置についても細かく定めている。
 市域に関連するものとしては、一四六七年(応仁元)四月二日の禁制で、鷲頭庄妙見山での庶民の狩猟を禁じた規定がある。
 以上、『大内家壁書』を通して、大内氏の分国統治の実態をみてきたが、法令の整備状況は教弘の時代よりも政弘の時代、さらには義興の時代と、より充実され整備されている。それは政弘・義興の時代が政治的にも最も充実していた事実とも一致する。