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朝鮮貿易の開始

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 大内氏の朝鮮との通交は、早くも義弘の一三九五年(応永二)に始まり、義隆の一五五一年(天文二十)まで続くが、その収益は分国統治の重要な財源となった。
 これよりさき、一三六四年(貞治三・正平十九)に弘世が初めて上洛して、将軍足利義詮に謁したとき、「在京ノ間数万貫ノ銭貨・新渡ノ唐物等、美ヲ尽シテ、奉行・頭人・評定衆・傾勢・田楽・猿楽・遁世者マデ是ヲ引与ヘケル間、此人ニ増ル御用人有マジ」と、評判になったことがある(『太平記』)。そのころはまだ正式に貿易を行っていないので、支配下の海賊衆から入手したものといわれているが、大内氏の領国の位置からみて、すでに古くから大陸や朝鮮半島との往来のあったことが想像される。
 義弘のころには、瀬戸内海から響灘・玄界灘の島々を本拠として活動していた海賊衆を支配下におさめ、その機動力を利用して李氏朝鮮との交易を積極的に行うようになった。ことに一三九九年(応永六)七月に、義弘は朝鮮国王の定宗に宛てて、大内氏が百済国王の後裔であることを述べ、百済国時代の故地の一部の割譲を求めた。定宗もこれを容れようとしたが、重臣の反対が強く実現しなかった(『李朝実録』)。また、この年十二月に義弘が応永の乱で堺に敗死したため、その後の交渉は沙汰やみとなった。
 義弘の死後、領国内の混乱で朝鮮との交渉はしばらく途絶えたが、跡を継いだ弟の盛見によって一四〇三年(応永十)二月に再開され、交易回数も一代の間に二〇数回に及んで盛況をみた。当時の貿易内容をみると、輸出品には、南洋産の樟脳・蘇木・胡椒・白檀・紫檀などがあり、国産品としては、絹織物・刀剣・扇子のほかに漆器・屛風・筆・硯などの工芸品があった。輸入品には、大蔵経・仏具・虎豹の皮・綿布などがあったが、当時すでに朝鮮でも入手が困難になっていた大蔵経を、一代のうちに四部も輸入していることは注目に値する。
 一四三一年(永享三)六月に盛見が筑前深江で戦死してのち、またしばらく内訌が続いたため、持世の代には盛見時代のように積極的な交易は行われなかった。
 嘉吉の乱に倒れた持世の跡を教弘が継ぐと、交易は再び盛んになり、貿易品目も増加した。輸出品に南洋産のものが減少した反面、武器・絹織物・扇子・漆器類などの国産品が増えている。また、このころ朝鮮では貿易統制の方針を打ち出し、日本からの渡航船には、対馬の宗氏の認証がなければ入国できないことになったが、大内氏の使送船は例外として扱われた。ことに一四五三年(享徳二)、教弘が朝鮮国王瑞宗の即位を祝って僧有栄を派遣した時には、瑞宗からの返礼として、銅材の通信符を有栄の帰国に託して贈られた。「通信符」と刻んだ印面の中央を、縦に二つに割った右側の半分で、その側面に、「朝鮮国賜大内殿通信右符 景泰四年七月日造」と彫り込んである。景泰四年(一四五三)は瑞宗の即位元年、わが国の享徳二年に当たる。大内氏の使船が、この印を押した通信符をもって渡航すると、朝鮮では左符の印影と照合して、正規の使船であることを確認し、交易を許可する仕組みになっていた。これによって、大内氏は以後の自由な交易を保証されたのであって、大きな特権となった。現在この通信符は、日明貿易に使用された木印の「日本国王之印」などとともに重要文化財に指定され、防府市の毛利報公会毛利博物館に伝えられている。
 政弘もまた教弘に引き続いて貿易の発展に努力した。しかし、このころから露骨に営利を目的とするようになってきたため、朝鮮側から歓迎されなくなり、しだいに交易は衰え始めた。これは義興・義隆の時代も同様であり、義興の代の一五一〇年(永正七)の三浦の乱のあとは、交易は行われても以前ほど活発ではなく、義隆の代の一五五一年(天文二十)を最後に終わりを告げた。
 応仁の大乱で大内氏が貿易に目を向ける暇のないころ、正規の貿易から締め出されていた分国内の海賊衆も、しきりに朝鮮半島に使を派遣している。朝鮮側の記録の『海東諸国記』によると、一四六七年(応仁元)から一四七一年(文明三)にかけて、周防国からは玖珂郡大畠太守海賊大将軍源朝臣芸秀、熊毛郡上関太守鎌苅源義就、同上関守屋野藤原朝臣正吉、都濃郡富田津代官源朝臣盛祥などの名前が見える。これらの人については明らかにし得ないが、瀬戸内海の大畠・上関・富田の諸浦を根拠にした人たちであろうか。市域の下松浦や笠戸浦の人たちとの関わりを想像させてくれる史料でもある。