明との貿易に大内氏が参加するようになったのは、教弘時代の一四五三年(享徳二)からである。五一年(宝徳三)の遣明船九艘のうちの七号船として参加を許され、五三年に出発して翌年に帰国した。明との貿易は勘合符により、初期には幕府船のほかには天龍寺や相国寺などの寺院船が中心であった。
一四六五年(寛正六)の遣明船は幕府船・細川船・大内船の三艘で組織され、大内政弘が船や貿易品の準備を一任され、翌六六年(文正元)に博多を出発した。この時の渡航記録である『応仁二年戊子入明員件』によると、三号船の大内船には豊前国門司(北九州市)の寺丸(一八〇〇石)が選ばれている。そのほかに「可成渡唐船分」(唐船)として、周防国からは都濃郡富田(新南陽市)の弥増丸(一〇〇〇石)、熊毛郡上関(上関町)の薬師丸(五〇〇石)、吉敷郡深溝(山口市)の熊野丸(六〇〇石)、玖珂郡楊井(柳井市)の宮丸(七〇〇石)があげられている。これらの唐船には周辺の農漁民が水夫・梶取として乗り組み、大陸との貿易や国内交易の海上輸送に従事していたものと思われる。ことに富田の弥増丸には下松市域の人たちが乗船していたことも想像される。貿易品には、鎧・太刀・長刀・鑓などの武器類、屏風・扇子・硯などの工芸品、銅・硫黄・瑪瑙などの資源が積み込まれている(『応仁二年戊子入明記』)。しかし、この遣明船が帰途についた一四六九年(文明元)にはすでに応仁の乱が始まっており、大内氏と細川氏が敵対関係にあったため、細川船は大内領の瀬戸内海の通航を避けて、九州南端から土佐沖を廻って堺に帰港した。これ以後、細川氏は堺の商人と結んで渡航船や貿易品を調達することになり、博多の商人と提携した大内氏との対立は、堺と博多の商人の争いともなった。その後しばらくは細川氏が優位を占め、大内氏は対明貿易参加の機会を得られなかった。
一五〇八年(永正五)に大内義興が管領代に就任してからは、大内氏が細川氏を押さえて貿易の実権を掌握し、一五二三年(大永三)の寧波の乱のあとは、細川氏を排除して貿易を独占した。
その後、義隆の代の一五三八年(天文七)と四七年に大内船が単独で派遣されたが、五一年に大内氏が滅亡して対明貿易は終結し、再び倭冠が活発となった。
当時の貿易の利益は四~五倍から二〇倍になったという。大内氏は貿易商人から抽分銭をとり、また領内の赤間関(下関市)や上関(上関町)などの海の関所では、往来の船から帆別船を徴収して財源の一部とした。
大内氏の海外貿易は、政弘の晩年から義興の代にかけて対鮮貿易は不振に陥ったが、このころに対明貿易を独占するようになったため、依然として大内氏の経済力は安定し、その財力により山口は繁栄をきわめたのである。