一五二八年(享禄元)に家督を継いだ義隆は、父義興から山城を除く周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見の六カ国を引き継ぎ、さらに備後の守護も兼ねて、中国・九州にまたがる戦国大名として大内氏の最盛期を迎えた。
家督を継いで間もない一五三二年(天文元)から、少弐・大友氏と豊前・筑前・肥前の各地に戦い、三五年三月に豊後の大友義鑑と和して、ほぼ九州の北部を制圧した。その後上洛の計画を立てたが、折から出雲の尼子氏の安芸への侵入が始まり、対立が激化したため、分国の統治に専念することとし、安芸の毛利元就や石見の吉見正頼などとの結束を固め、尼子氏の大内氏分国への侵入に備えた。
一五四〇年(天文九)正月、義隆は防府に出陣し、二月には先陣を安芸に進めた。同年九月に尼子晴久が安芸に進入して毛利氏の本拠吉田郡山城を攻めたので、義隆は本陣を岩国の永興寺に移し、周防守護代陶隆房(のち晴賢)や長門守護代内藤興盛に防長の諸士を付して安芸に入れ、郡山城に籠城中の毛利元就を救援して尼子氏を撃退した。ついで翌四一年三月にはみずからも安芸に進んで領国の回復に努め、さらに四二年三月には出雲に出陣して各地に戦った。翌年二月には尼子氏の本拠富田月山城を攻めたが、尼子氏の逆襲を受けて大敗を喫し、山口にのがれ帰った。山口へ帰る途中の五月七日には養嗣子の義房(義隆の甥)を出雲の揖屋浦で失う痛手を蒙った。
この出雲遠征を最後に、義隆みすがらの出陣はあとを絶つ。武将としての活動は事実上ここで終わったのである。その後も戦いは各地で続いたが、軍事はもっぱら陶・内藤・杉氏らの有力家臣に任せ、自身は築山館にあって学問や芸能の世界に明け暮れた。
義隆は戦国大名としてはまれにみる文化人であった。その環境は、夫人の万里小路氏をはじめ、継室・側室を京都から迎え、さらには大納言一条房家の四男義房を養子に迎えるなど、京都風になじんでいた。義隆自身の気持も、位は二位、官は左京大夫から大宰大弐・兵部卿に栄進し、京都に向いていた。
また京都からは、関白二条尹房・前左大臣三条公頼・大納言冷泉為和・同広橋兼秀・同柳原資定・中納言日野晴光・大蔵卿東条坊長淳らの公卿や、神道の卜部兼右、二条流歌学の飛鳥井雅綱・同雅俊、冷泉流歌学の皆明寺尭淵僧正、有職家の日野資宣、装束の冷泉紹恵、郢曲の持明院基規、管弦の東儀兼康・岡昌歳などの著名な学者や文化人が山口に下向してきて築山館を中心に多彩な文化をくりひろげた。
自らはキリスト教の信者ではなかったが、一五五〇年(天文十九)から翌年にかけて、二度にわたって山口を訪れた耶蘇会のザビエルを保護して、領内で布教を許したことはよく知られている。