このような義隆の文化への傾倒が、一方では陶隆房に代表される武将たちと、義隆側近の相良武任などの文人派との対立となって現われ、家中を二分してついには大内氏を滅亡に導くことになったのである。
陶氏は、大内氏の一族右田盛長四世の孫弘賢が防州吉敷郡陶村(山口市)に在住し、在名をもって陶氏を称したのに始まる。その子弘政のときから都濃郡富田保(新南陽市)を領し、この地に移り住んだ。五代盛政の時に周防守護代となって以来、代々周防あるいは長門・筑前などの守護代をつとめて、大内氏家中第一の地位を占めた。隆房の父興房は義興・義隆の二代に仕え、よくこれを補佐して、家中の信望も厚かった。
隆房は一五三九年(天文八)四月に一九歳で家督を継ぎ、翌四〇年以来、大内家中の中心となって安芸・石見・出雲の各地に出陣して活躍した。
一方の相良武任は、肥後の名族相良氏の一族である。大内氏譜代の家臣ではなかったが、父の正任が大内政弘に仕え、武任もまた父の跡を継いで義隆の右筆となり、しだいに重用されて、政治・軍事にまで発言力をもつようになった。
陶隆房と相良武任との対立は、尼子氏との抗争の過程で表面化した。出雲遠征に敗れて山口に帰って間もない一五四五年(天文十四)五月には、武任は追われて一旦は九州に退避したが、四八年八月に義隆に召されて再出仕すると、また隆房との対立が激しくなってくる。
このような中で、隆房側の謀反計画は着々と進められ、五〇年になると、義隆を廃してその子義尊を擁立しようとする動きにまで発展した。そのため、義隆と隆房との間にも不穏な空気が漂い始め、隆房は八月に本拠の都濃郡富田若山城に帰り、危険に備えた。
翌一五五一年(天文二十)になると、隆房の義尊擁立計画は変更され、義隆父子を殺害して、豊後の大友義鎮の弟晴英を迎えることになった。義鎮・晴英兄弟は義隆の姉の子で、義隆の甥に当たる。
八月二十七日の夜、大友氏の使臣を迎えて、築山館で歓迎の能興行が行われていたころ、隆房は富田若山城を出発し、本隊は佐波郡の徳地口から、別働隊は江良房栄・宮川房長らに率いられて防府口から山口に進入しようとしていた。この時の下松市域の諸士の動きについてははっきりしないが、地域的な関係からみると、陶氏に従った可能性が強い。
急を聞いた義隆は、冷泉隆豊・天野隆良・岡部隆景らに防御を命じたが、豊前守護代杉重矩・長門守護代内藤興盛らの重臣が離反するに及んで、翌二十八日ついに築山の館を捨てて法泉寺(山口市)に難を避けた。
八月二十九日、義隆に随行していた公卿衆の一人、二条前関白尹房は使者を内藤興盛のもとに遣して、義隆の隠居と義尊の家督という条件を示して、和睦の斡旋を依頼したが、興盛は「今更に御拵へなるべからず、法泉寺にて義隆は御腹召され候べし」と答えて、斡旋を断った(『大内義隆記』)。
陶・杉・内藤氏らの軍勢五〇〇〇余騎に攻め立てられ、法泉寺も支え切れなくなった義隆一行は、二十九日の夜、法泉寺から山伝いに岡部隆景の知行所のある美祢郡岩永(秋芳町)を目指して落ち延びたが、ここも追われて大津郡の瀬戸崎浦(長門市)に走り、海路を遁れようとしたが、折からの風波にさえぎられて引き返し、深川(長門市)の大寧寺に入って自刃した。ここに、防長の歴史に長く名を残した大内氏は滅亡したのである。時に一五五一年(天文二十)九月一日、義隆四五歳の生涯であった。
このとき、冷泉隆豊・天野隆良・岡部隆景・黒川隆像・高橋右延らが義隆に従って殉じた。その墓は大寧寺の奥まった山すその一角に、義隆の墓を取り囲むように、ひっそりと立ち並んでいる。