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冷泉氏

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 大内氏の重臣冷泉氏が市域の豊井・末武・河内などに領地をもっていたことが知られている(『閥閲録』一〇二)。冷泉氏は大内弘世の五男弘正を始祖とする大内氏の一族で、興豊代の一四九二~一五〇二年(明応~文亀二)のころに、母方の冷泉氏を名乗った。
 一五〇二年(文亀二)八月三日、興豊は大内義興から玖珂郡由宇郷(由宇町)などとともに、森下右衛門次郎の先給地であった都濃郡千世次保内で三〇石の地を預け置かれている。千世次保の所在についてははっきりしないが、市域の末武保内にあったと比定されている。ついで一五〇五年(永正二)二月二十三日には、都濃郡河内郷内一五石の地を、大内義興が冷泉五郎興豊との約諾に任せて玉信僧都の進止を認めている。これも興豊の支配下にあったものであろう。さらに一五一九年九月十一日に、大内義興から末武村で安富三郎跡地六七石、豊井郷内で波多野雅楽助跡地五〇石と倉波又三郎跡地一五石を与えられている。この史料から、興豊の前にそれぞれの地を領していた領主に安富・波多野・倉波氏らがいたことも知られる。
 興豊の子隆豊は、一五五一年(天文二十)九月一日に、長門深川の大寧寺で大内義隆に殉じた。このときに市域に関係する領地は冷泉氏から一旦離れたのであろうか。遺児の元豊・元満兄弟は、母方の祖父にあたる安芸の平賀弘保を頼って陶隆房の追求を遁れた。のち平賀氏とともに毛利元就に仕えることになり、毛利氏の防長統一にも協力した。
 一五五八年(弘治四)三月十日に、元豊は毛利隆元から下松西福寺領四一石を与えられている。このころに毛利氏の防長統一に協力した功により、再び市域に領地を回復したものであろうか。同年(永禄元)七月には隆元の一字名を得て元豊を名乗ることを許されている。
 元豊は毛利氏の水軍を率いる乃美宗勝と行動をともにして各地に出陣していることからみて、大内系の水軍を統率して毛利氏の麾下に入ったものであろうか。一五六二年(永禄五)十月、元豊は大友氏との戦いの最中に豊前の柳ケ浦(北九州市)に戦死した。
 元豊の跡を継いだ弟の元満は、毛利輝元に兄の遺領を安堵され、引き続き水軍を率いて活躍する。六六年に出雲の尼子氏が滅びたあと、時期ははっきりしないが、元満は防長の本領を離れて出雲の仁多郡に一所衆とともに移されている。『八箇国御時代分限帳』によると、出雲仁多郡のみで三五八五石を給されている。元満の代には、毛利氏が豊臣政権下に入ったこともあって、活動の領域も広がり、元満は水軍の将として九州・四国・紀伊の各地に出陣するだけでなく、朝鮮の役にも出兵して、ついに九七年(慶長二)十二月二十二日に朝鮮の蔚山で戦死した。
 元満の跡を元珍が相続して、出雲の仁多郡で五四四九石を領した。一所衆の知行三四六四石を合わせて一万石近い大身として遇されるが、一六〇〇年(慶長五)の関ケ原の役後の毛利氏の所帯の縮小につれて、冷泉氏も中級家臣に衰退していく。