大内氏の家臣波多野氏が切山保に在住していたことも知られている(『閥閲録』一六七、『風土注進案』7)。一五四六年(天文十五)十月六日に、波多野勝実が養父勝兼の給地都濃郡切山保二〇石の地を、三一年(享禄四)十月二十八日の譲状の旨に任せて相続することを許されている。このとき勝実は、勝兼の息女と結婚して公役を勝実が勤めるよう命ぜられているが、勝実は離婚した場合にも給地を自由にできるよう申し出て断られている。これは大内義隆の命を奉じた奉行人の奉書であるが、五二年(天文二十一)九月二十六日には大内義長に切山保二〇石の知行を安堵されている。大内義長は、前年に叔父の義隆が長門深川大寧寺に滅びた後、陶隆房に迎えられて豊後の大友家から入ったものである。このとき陶晴賢(隆房を改名)からも当知行安堵を祝されているので、波多野勝実は大内義隆没後は義長-晴賢に属していることが知られる。
一五五五年(弘治元)十月一日、陶晴賢が安芸の厳島で毛利元就に討たれたあとは毛利氏に属し、毛利氏の防長統一に協力している。翌五六年から五七年にかけて、勝実は玖珂郡の蓮花王山(周東町)や佐波郡の右田嶽(防府市)に出陣して戦功をあげ、毛利隆元から褒美を得ている。
勝美の跡を継いだ万三郎は、一五六三年(永禄六)正月二十四日に、毛利輝元から父の遺領を安堵されている。さらに七九年(天正七)四月二十四日に、波多野七郎が彦左衛門尉に任ぜられた記録もある。
その後の波多野氏についてはよく分からないが、『風土注進案7』所収の石津玄宅家の由緒書によると、近世に入って間もなく牢人したとある。関ケ原役後の毛利氏の動向に関連したものであろうか。一七世紀初め(慶長末年)に熊毛郡三輪庄(大和町)内の見原村に来住し、その後一六六一~七二(寛文年中)に塩田村(大和町)に転宅して波多野道宅が医業を開き、一七一二年(正徳二)に周益の代に至って、三輪村の勘場医石津玄宅の養子に入ったと伝える。