七〇九年(和銅二)に豊前国宇佐宮より勧請したという社伝をもつ花岡八幡は、地蔵院・楊林坊・常福坊・千手院・閼伽井坊・香禅寺・惣持坊・長福寺・関善坊の九つの社坊を抱えて古くから栄えていた。花岡八幡には中世文書は伝わらないが、地蔵院に伝来し、花岡八幡に保存されてきた『村上家文書(旧地蔵院文書)』によると、大内氏や陶・毛利氏に厚く保護されていたことが知られる。
一五四三年(天文十二)十一月五日に、陶隆房が父興房の証判の旨に任せて、地蔵院住持職を祐教権大僧都に安堵した書状がある。住持職の安堵は当然に寺領の安堵も含んでいるので、このことから、陶興房・隆房父子の代に地蔵院が陶氏の保護を受けていたことを知りうる。末武が陶氏の本拠富田に近かったことも、古い来歴とあわせて、信仰を受け保護されやすかったのであろうか。
一五五五年(弘治元)十月一日に、陶晴賢が安芸の厳島で毛利元就に討たれたあとは毛利氏の保護を受けるようになった。翌年十二月二日には伊予公が千手院を進め置かれ、翌五七年八月二十六日には、毛利氏奉行衆の連署で重喜公が地蔵院住持職を仰せ付けられている。花岡八幡や社坊の寺社領が具体的に分かるのは、八九年(天正十七)や一六〇〇年(慶長五)の「打渡坪付」であるが、それによると末武庄内の諸所で分筆支給されている。一五九九年二月十日付の「坊州都濃郡末武花岡八幡宮目録安(案)書」によると、寺社領合わせて一三六石六斗二升三合が打渡されている。