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受天寺

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 末武中村の禅宗寺院亀福山受天寺は一五五四年(天文二十三)に建立され、安芸佐方村(広島市)永興寺から昌応隆繁を迎えて開山としたと伝える。しかし、同年に毛利氏の勢力が末武に及んだとは考えられないので、隆繁の招請はいま少し下るものと思われる。一五五〇年代末(永禄初年)ごろの六月四日付毛利隆元書状によると、隆繁は永興寺を桂元澄に譲った替地として末武受天寺一八石を与えられている(『風土注進案』8)。隆繁の入る前にすでに受天寺が存在していたことが知られるので、あるいは大内氏か陶氏のもとで建立されたものであろうか。その後、六五年(永禄八)十月二十七日に、毛利輝元が父隆元の証判の旨に任せて、隆繁に受天寺の寺領を安堵している。さらに八四年(天正十二)五月二十八日に、輝元は隆繁の跡の住持職を存茂に宛行っている。その後受天寺は、江戸時代の終りごろに久米村(徳山市)の日面寺と合併し、寺号を日天寺と改めて現在に続いている。