末武下村の真言宗寺院医王山正福寺は、江戸時代の火災によって旧記類を焼失したため、古い時代のことは分からないが、すでに大内氏の時代から厚い保護を受けていた(『風土注進案』8)。一四九〇年(延徳二)十月十八日付の陶武護の寺領宛行状によると、富田上村の井谷稲吉名五石の地を、神上坊宮ノ坊領として宛行われている。一五三八年(天文七)九月十八日にも神上社領幷当坊領を宛行われ、五〇年代(弘治年中)の十二月二十三日には、富田保内の井谷稲吉名で神上宮坊領五石七斗、末武の内で正福寺領一六石足が神上宮坊尭音に対して宛行われている。この文書が「弘治□十二月」とあるため、大内氏時代のものか毛利氏時代のものかはっきりしないが、八六年(天正十四)一月十七日付の毛利輝元袖判の寺領宛行状が、同内容のものを隆元袖判の旨に任せて、神上宮坊融真に宛行っていることからみて、毛利氏時代の可能性が強い。