隣接する久米村(徳山市)の禅宗寺院久米山慈福寺に伝わる古文書に、末武庄香力の開発に関する記事がみえる(『寺社由来』2)。鎌倉時代末期の一三二二年(元亨二)七月二十日に空円が山代五郎左衛門入道に宛てた書状で、都濃郡香力浜内の荒野二町を早く開発して慈福寺料に宛行うよう命じている。南北朝時代の正平九年(一三五四)□月二十二日付の智義書状は、香力浜荒野二町が開発されたら、故入道の書状に任せて慈福寺に寄進することを約束している。一三六五年(貞治四・正平二十)四月二十七日に末武庄内香力名が慈福寺舎利殿常住料足所として寄進されているのは、さきの二つの文書と関係したものであろうか。六九年(応安二・正平二十四)四月にも末武庄香力名が慈福寺舎利殿常住料足料として寄進されている。これらの文書は江戸時代の一七四一年(寛保元)にはすでに紛失していて、写しか伝わっていないので真偽を確かめるすべはないが、開発と寺領寄進の関係で挙げておく。