豊井保下松にあった西福寺は時宗の道場で、一五五二年(天文二十一)十月十五日に、宣阿が大内義長から住寺職を許され、寺家寺領の執務を命ぜられている(『寺社由来』7)。西福寺は防長が毛利氏の支配下に入ってからは寺領を奪われたようで、五八年(弘治四)三月十日に、毛利隆元が寺領四一石を冷泉元豊に与えている(『閥閲録』一〇二)。その後西福寺は没落し、その跡地に林松山大蓮寺が建立され、さらに毛利就隆が下松藩(のちの徳山藩)を興してからは、就隆の生母(輝元側室)二の丸(清泰院殿栄誉周慶大姉)の菩提所として麟祥山周慶寺に改められた。