一五五一年(天文二十)九月、大内義隆が大津郡深川(長門市)の大寧寺で自刃したあと、防長両国は長門守護代内藤興盛や、周防の豪族椙杜房康・隆康父子などの協力もあって、陶氏の支配下にまとまったが、その他の分国では混乱が生じ始め、やがて陶氏から離れていく傾向が出てきた。
安芸国では義隆に重用された西条の平賀隆保が、家中の対立から本拠の高屋頭崎城を追われ、また毛利氏からも攻められて西条槌山城に敗死した。
石見国では津和野の吉見正頼が陶氏と対立関係にあった。正頼は石見国の西部から長門国阿武郡にかけて勢力をもち、義隆の姉大宮姫を室とするなど大内氏とは親密な関係にあり、陶隆房の勧誘にも容易に従わなかった。そのため隆房は、石見で吉見氏と勢力を競っていた益田藤兼に攻めさせたが成功せず、吉見氏と陶氏との対立は長く尾を引くことになった。
筑前国では守護代の杉興運が陶氏に従わなかったので、隆房は糟屋郡の若杉山に攻め、糟屋浜でこれを討ち果たした。これより先、相良武任は杉興運を頼って筑前に下向していたが、陶氏の軍勢に追われて花尾城(北九州市)で討たれ、山口で獄門にさらされた。
豊前国は守護代杉重矩の支配下にあったが、城井・野中氏などの豪族が相ついで離反し、これを討ち取ったものの混乱状態は続いた。隆房との関係は一時的に修復されていたが、義隆の没後に再び対立を生じ、一五五二年(天文二十一)一月、隆房は周防国佐波郡大崎(防府市)に重矩を攻め、長門国厚狭郡万倉(楠町)に追撃して長興寺に自殺させ、山口にその首をさらした。
このような混乱の治まった後、隆房は大内氏譜代の重臣だけでなく、毛利氏など近隣の豪族とも協議して、かねてからの計画に従って、義隆の甥に当たる豊後の大友晴英を迎えて大内氏を継承させ、家中の実権を握ることに成功した。隆房は晴英の偏諱を受けて晴賢と改め、晴英も翌五三年の初めに義長と改名した。
このように、大内義長・陶晴賢によって、防長両国は一応のまとまりをみせたが、その他の大内氏の分国はしだいに独立し始めた。九州の豊前・筑前には豊後の大友氏が進出し、中国では安芸の毛利氏が安芸・備後の統一を進め、石見では吉見・益田氏が争っていた。