毛利氏は鎌倉幕府の重臣大江広元の四男季光が相模国愛甲郡毛利庄(神奈川県厚木市)を領し、地名を氏として大江姓毛利氏を称したのに始まる。
季光は一二四七年(宝治元)六月、三浦泰村の乱に加担して執権北条時頼と戦って敗れ、三人の子息とともに鎌倉の法華堂で自殺した。このとき四男の経光は越後国佐橋庄に在住して乱に関係していなかったため、佐橋庄と安芸国吉田庄の地頭職を安堵されて、毛利の家名を保つことができた。
その子時親は佐橋庄南条と吉田庄を譲られたが、一三三六年(建武三)に吉田庄に下向して安芸毛利氏の始祖となった。このころ南北朝の動乱に巻き込まれて親子一族が争って毛利家中も混乱するが、曽孫の元春がよくまとめて毛利氏発展の基礎を築いた。元春は一族を吉田庄周辺の地域に分散配置して、坂・有富・麻原・福原・桂・長屋・志道などの在地名を名乗らせ、庶家を積極的に創出して勢力を周辺に扶植した。
元春ののち三代を経た豊元の代に応仁の乱が起こり、豊元は初め東軍の細川勝元に属したが、一四七一年(文明三)に一族の福原広俊の勧めで西軍に転じて大内政弘に従った。このときから大内氏との関係が深まり、豊元の子弘元は大内義興を助けて各地に戦った。
元就は弘元の二男として九七年(明応六)三月十四日に吉田郡山の城内に生まれた。兄興元・甥幸松丸の相つぐ早世で家督を継ぐことになり、一五二三年(大永三)八月、家臣に迎えられて多治比の猿懸城から郡山城に入った。このとき出雲の尼子経久が元就の異母弟相合元綱を支持して毛利家中の分断を図ったので、元就は元綱とその一党を誅伐して家中を統一した。このころ安芸・備後の諸将は、山陰の尼子氏と山陽の大内氏との間にはさまれて複雑な動きをしていたので、毛利氏もこの渦中に巻き込まれたのである。元就はこのことがあってから尼子氏を離れて大内義興に属することになった。義隆の代にはさらに関係が深まり、三七年(天文六)十二月に元就は嫡子の少輔太郎を質子として山口の義隆のもとに送った。義隆はこれを厚くもてなし、山口で元服の式を執り行って偏諱を与え、隆元と名乗らせた。さらに後年には長門守護代内藤興盛の娘を養女にして、隆元の室としたほどである。
元就は大内氏の後援のもとに、芸備両国の有力国衆を支配下におさめて、大いに勢力を伸ばしていった。安芸の天野・熊谷・宍戸・吉川・小早川・平賀氏、備後の宮・多賀山・山内・和智氏などの諸氏を相ついで服属させた。わけても長女を隣接する高田郡甲立五竜城主宍戸隆家に配し、二男元春を山県郡新城日山城主吉川興経の養子に入れ、これまで芸北の山間部で毛利氏の背後を脅かしていたこの両家を無二の味方とし、また三男隆景に瀬戸内海にすぐれた海軍力をもつ小早川家を相続させたことは、毛利氏の勢力を陸海両面にわたって一段と強化させることになった。
このようにして、元就の芸備両国統一の事業は進展したのであるが、それを支えたのは大内氏の後援であった。その大内氏が一五五一年(天文二十)に義隆が陶隆房に討たれて没落したことから、西中国の形勢は一変し、にわかに元就の存在が注目されることになった。
毛利氏略系図(Ⅰ)