山口に入って大内氏の故地を継承した大内義長は、陶晴賢のもとに防長両国の支配態勢を固めていったが、その前途は容易でなかった。
津和野の吉見正頼は、晴賢討伐の態度を鮮明にして元就の来援を求めた。これに驚いた晴賢は、直ちに軍勢を派遣して吉見領に攻め入り、五三年(天文二十二)十月ごろから長門国の阿武郡内の各地に戦ったが戦果はあがらず、翌春の総攻撃を期して、これまた元就に参陣を求めてきた。
陶・吉見氏の両陣営から来援を求められた毛利氏は、態度の決定を迫られて連日軍議を開いて対策を協議したが、中立を保とうとする元就と吉見氏支援を主張する隆元の意見が分れて、容易に結論を下せなかった。
晴賢は翌五四年三月から大内義長を奉じて吉見正頼討伐を開始したが、元就の来援の遅れに疑いを抱いて、平賀氏を利用して芸備諸将の離間策を図った。晴賢のこの策動を怒った元就は、ついに吉見氏支援を決定した。
同年五月十二日、元就は精兵三〇〇〇余騎を率いて郡山城を出発し、佐東銀山城を攻めてこれを占領し、ついで己斐城を攻略した。さらに西進して草津・桜尾城を陥れ、安芸国内の大内氏の属城をほぼ手中に収めたあと、対岸の厳島を占拠して陶軍の来攻に備えた。また周防の北部に攻め入って、玖珂郡の小瀬・御庄(岩国市)に戦い、山代地方の神田・松原・三分一氏らの豪族を懐柔して、周防進出の足がかりをつくった。さらに六月十八日には、小早川隆景配下の水軍を都濃郡富田浦(新南陽市)に派遣し、陶氏の本拠若山城を牽制させた。このとき大島郡平郡(柳井市)の浅海道高が防戦に参加して小早川軍の首一をあげて晴賢から感状を受けている。(『閥閲録』一六七)。
吉見正頼と対戦中であった晴賢は、元就の一連の行動に驚き、八月下旬に吉見氏と和睦して山口に帰り、山代地方を支配下におく部将宮川房長に命じて桜尾城奪還の作戦に出た。戦いは九月十五日に廿日市西方の折敷畑で展開されたが、毛利氏の大勝に終わった。晴賢は周防・長門・豊前・筑前の兵二万余を率いて山口を進発し、岩国横山の永興寺を本陣にして部将を周辺の各地に配置し、反撃の準備に移った。前述の波多野勝実が、一五五二年(天文二十一)九月二十六日に陶晴賢から油断なく奉公するよう求められていることからみて(『閥閲録』一六七)、このころには都濃郡の将士は陶氏に従って行動していたものと思われる。
このような陶氏の動きに対して、元就もまたしばらくは全面戦争を避け、局地戦のうちに敵の出方をうかがう一方、巧みに諜報網を利用して陶軍の内部攪乱を図っていたが、五五年(弘治元)の春、元就は兵力に勝る陶氏との決戦の場を厳島に求めようとし、有浦に宮尾城を築いて陶軍を誘い寄せた。厳島を舞台にした戦いは五月中旬から続いていたが、九月二十一日に晴賢自身が周防の水軍五〇〇余艘を率いて渡海したので、戦局はにわかに緊迫した。元就は九月三十日の暗夜に暴風雨をついて島に渡り、翌十月一日の払暁を期して総攻撃を開始した。夜来の暴風雨に油断していた陶軍は潰滅的な打撃を受け、晴賢は西岸の大江浦に追いつめられて自殺し、三五歳の生涯を閉じた。このとき味方に引き入れることに成功した伊予の村上水軍は、以後毛利水軍の重要な戦力となって活躍した。
厳島の戦いのあと元就は十月十八日に岩国横山の永興寺に本陣を進め、つぎの作戦計画に移った。山陽道を中軸とする陸路の先鋒は嫡子の隆元、玖珂・熊毛・都濃郡の南部を迂回する海岸部は小早川隆景の部署とし、山岳戦に強い吉川元春は岩国から石見に転進して尼子氏に備えた。
隆元の軍は十月中旬に玖珂郡蓮華王山(周東町)城主椙杜房康・隆康父子を服属させ、ついで十月二十七日には鞍掛城(玖珂町)の杉隆泰を討って滅ぼし、さらに翌五六年(弘治二)三月には山代一揆を平定して玖珂郡を支配下に収めた。隆景軍もこれに呼応し、伊賀地(柳井市)の一揆を平定して西に進んだ。