玖珂郡を経略した元就は、兵を進めて都濃郡に侵入してきた。当時、都濃郡の有力な拠点は、山崎興盛父子の拠る須々万(徳山市)の沼城と、陶晴賢の遺臣たちの籠る富田若山城であった。
元就はまず沼城を攻略することにして、隆景に命じて五六年四月上旬にこれを攻撃させた。沼城は三方を沼沢で囲まれた要害堅固な城塞で、城番の山崎興盛を援けて山口から詰めた伊香賀左衛門大夫・江良賢宣・勝屋興久らを合わせて一万人にものぼる兵力だったので、容易に陥すことができなかった。
隆景のあとを受けて隆元が攻撃に参加することになり、隆元は岩国を発して沼城に向かった。その途次の四月十八・十九日に市域の鷲頭や下松妙見山で戦闘が行われ、大量の犠牲者を出している。四月二十八日付で毛利元就と隆元が粟屋元通に宛てた感状に、四月十八日に鷲頭で敵一人、翌十九日に下松妙見山で敵五人を打ち取った功を褒めている(『閥閲録』七四)。ことに十九日の下松妙見山の合戦では、天野元定・熊谷隆経らが五〇〇余人を打ち果たしてその功を賞されている(『閥閲録』一七〇)。この二つの感状から、鷲頭・妙見山の合戦が相当な激戦で、多数の死傷者を出したことを知りうる。
隆元は四月二十日に沼城の総攻撃を開始したが、これを抜くことができず、重臣の意見を容れて一旦退くことにした。翌二十一日に撤退を始めた毛利軍を追撃した城兵との間に激戦が交わされ双方に被害が出た。このとき戦死した人の中に宍戸氏の家臣庄原木工助元繁の名前が見える。庄原元繁は、江戸時代に帰農して下松市域の温見に土着した角家の先祖である。
隆元は同五六年の九月にも再び沼城を攻撃したが、これを降すことができず、沼城には山代の一揆勢も加わって、長期戦の様相をみせてきた。
翌五七年(弘治三)にはついに元就自身が出陣することになり、二月二十九日に岩国を出発して翌日には須々万に到着した。二十九日から総攻撃が開始され、三月三日にようやく落城させることができた。実に一年近い攻防であった。この攻防戦に毛利氏が鉄砲を利用しようとしていることからみて(『閥閲録』一三四)、相当の苦戦であったことが知られる。
ついで、同月八日には陶氏の本拠若山城を攻略し、一気に佐波郡に攻め進んだ。佐波郡では陶氏の一族右田隆量や防府天満宮を服属させ、勢いに乗って山口に迫った。