これより先、大内義長は山口の姫山や高嶺に城を築き、元就の急追に備えようとしたが、家中には勢いに押されて毛利軍に投降する者が多く、形勢の不利をさとった義長は内藤隆世に守られて三月十二日に山口を脱出した。吉敷郡の小郡(小郡町)から長門国厚狭郡の厚東(宇部市)・舟木(楠町)・厚狭(山陽町)・吉田(下関市)を経て豊浦郡の且山城(下関市)に拠った。義長一行は九州に渡って兄の大友義鎮に頼ろうとしたのであるが、関門海峡を毛利氏の村上水軍に押さえられて進退きわまり、四月二日、内藤隆世は義長の助命を願って且山城で自刃した。義長は一旦は長府の長福院(功山寺)に退いたが、翌三日に毛利軍に攻めたてられてそこで自殺した。
義長の首級は防府に送られ、大専坊の本陣で元就の実検に供えられた。元就はこれを長福院に返送し、寺域に埋葬して石塔を建て、その冥福を祈らせた。その墓は今も功山寺の墓地の奥まった一角にのこり、ひっそりと建っている。
その後もなおしばらくの間は、防長の各地で大内氏や陶氏らの遺臣による一揆が続いたが、一旦吉田に凱旋した元就が五七年(弘治三)十一月に都濃郡の富田まで再出陣してこれを鎮圧し、ここに毛利氏の防長両国の統一が実現した。六二年(永禄五)九月十九日に将軍足利義輝は隆元を長門守護職に任じ、ついで翌六三年五月十六日に周防守護職の兼任を命じ(『毛利家文書』一)、幕府も毛利氏の防長領有を公認した。
こののち一五六九年(永禄十二)十月十一日、義隆の従弟大内輝弘が大内家の再興を図り、大友義鎮の援助を受けて吉敷郡秋穂浦(秋穂町)に上陸し、山口に乱入して毛利氏に抗したが、逆襲されて十月二十五日に佐波郡の茶臼山(防府市)に自殺した。これ以降、大内氏側からの反撃はあとを断ち、毛利氏の防長支配は完成したのである。