元就は防長を統一していく過程で、大内氏の降将にはその所領を安堵し、新たに入手した土地は統一事業に参加して戦功のあった麾下の将士に新恩として給与した。下松市域の関係について具体的にみてみよう。
都濃郡については、すでに経略中の一五五六年(弘治二)七月二十八日に、手に入れたら配分する方針を打ち出している(『閥閲録』七七)。
同年十一月十七日に、出羽元祐に宛てて都濃郡内の諸所で二〇〇石を打ち渡している(『閥閲録』四四)。紙が破損していて場所がはっきりしないが、市域か周辺にあったと推定されるものが見える。出羽元祐は石見国邑智郡出羽郷に本拠を持つ旧族で、父祐盛が一五三一年(享禄四)に元就に与力して以来毛利氏に属し、元就の統一事業に参加して各地で戦功を樹て、たびたび新恩を給与されている。都濃郡との関係は深く、八九年(天正十七)五月三日に、毛利輝元から天正検地の結果に基づいて、都濃郡内で三九三石余の地を確認されている。
一五五七年(弘治三)八月二十八日、杉重良が知行注文を出して隆元から証判を得た中に、都濃郡内の鷲頭・河内両所一〇石がある(『閥閲録』七九)。杉重良は豊前守護代を勤めた杉重矩の孫にあたる。重矩は五二年(天文二十一)一月に陶隆房に討たれ、父重輔も五七年三月に内藤隆世に滅ぼされて零落していたのを、元就が家督につけて知行安堵したものである。当時四歳であった重良は以後毛利氏に属し、家中に支えられて各地に出陣して戦功をあげたが、のち毛利氏に叛いて大友氏に通じたため、七九年(天正七)三月、毛利氏に属していた豊前小倉城主の高橋鑑種に追われて豊前蓑島に自殺した。その後杉氏は、毛利氏の重臣福原貞俊の周旋もあって子息の元良に家督が許され、永く毛利氏に仕えた。
一五五八年(弘治四)三月十日、冷泉元豊が下松西福寺領四一石を与えられている(『閥閲録』一〇二)。冷泉氏についてはさきに触れたので省略する。
防長統一直後のものは以上であるが、その後新たに市域で新恩を給与された人々についてみておこう。
一五六〇年(永禄三)七月八日、植木次郎三郎が毛利隆元から防州河内郷で五貫文の地を与えられている(『閥閲録』一六九)。この河内郷が玖珂郡か都濃郡かはっきりしないが、のちに植木平七が都濃郡内で一三石を給与されているのと関連するものであろうか(『八箇国御時代分限帳』五)。植木氏についてはよく分からないが、近世には毛利氏の重臣で寄組家臣の国司隼人広孝の家来として登録されている。
同年七月二十二日、和智元経が毛利隆元から末武の内で二〇石を給されている(『閥閲録』五五)。和智元経は毛利氏譜代の重臣口羽春良の三男で、一時和智家を相続したが、元経の養子元宣が粟屋家から入ったこともあって、元宣の代に粟屋姓に復した。口羽・粟屋氏ともに毛利氏譜代の家臣である。
同年十二月十二日、慈眼院景順が毛利隆元から豊井保霊昌寺領五〇石を給されている(『閥閲録』六八)。慈眼院景順についてはよく分からないが、三隅家伝来の文書に伝わり、一五九六年(文禄五)一月二十九日に三隅元信が父養仙軒から都濃郡のうちで三〇石を譲り受けていることからみて、三隅氏との関係が深いものと思われる。霊昌寺については寺歴がよく分からない。
六一年(永禄四)八月二日、三田就政が毛利隆元から山田郷虚昌寺領の内で二〇石を給地として与えられている(『閥閲録』一一三)。三田氏についてはよく分からないが、隆元付の新参か。虚昌寺についてはその後の記録に現われないので、こののち廃寺になったものと思われる。
七〇年(永禄十三)十一月一日、近藤元統が毛利輝元から下松の内で先馬屋方源三郎給四石三斗を給地として遣わされている(『閥閲録遺漏』一の二)。近藤元統は五八年(弘治四)から七一年(元亀二)にかけて、隆元や輝元から安芸や周防の諸所で給地を与えられているが、のちに近藤氏は禄を離れて萩で町人になって記録が伝わらないため、詳細は不明である。
一五七八年(天正六)一月二十三日、井上元忠が養父就貞の手次に任せて、周防山田郷六石を知行するよう命ぜられている(『閥閲録』一二六)。井上氏は毛利氏の譜代家臣で、就貞は六九年(永禄十二)十月に大内輝弘が山口に乱入した時、山口を守って平野表に討死した。そのため就貞の甥元忠が聟に入って家督を継いだものである。
七八年(天正六)十二月十三日、二宮就辰が毛利輝元から末武の内で門番三郎左衛門尉給三石九斗を給地として遣わされている(『閥閲録』六四)。二宮氏は甲斐源氏の流れを汲み、南北朝時代に安芸に下ったという。のち吉川氏に属し、就辰の父春久の時に元就に仕えた。就辰は元就の庶子と伝えられる。
翌七九年二月二十二日、児玉元村は毛利輝元から末武・豊井での反銭の裁判を命ぜられ、八四年四月八日に子息の元光もこれを引き継いでいる(『閥閲録』一九)。児玉氏は武蔵児玉党の後裔と伝え、安芸に下ってのち毛利氏に仕え、譜代家臣として台頭した。
八二年(天正十)六月十七日、乃美元興は毛利輝元から都濃郡の矢地(徳山市)と市域の生野屋の両郷で一〇〇石の地を給されている(『閥閲録』一四)。この給地は八九年の検地では九四石で確認されている。乃美氏は小早川氏の一族で、小早川水軍を率いて瀬戸内海に活躍した。隆興の代に元就の子隆景が小早川家を相続してから乃美姓に改めた。元興は隆興の孫に当たる。
一五八六年(天正十四)二月二十八日、奈古屋元賀が子息の恒興に宛てた譲状に、末武六石・豊井二二石・生野屋二六石が含まれている(『奈古屋譜録』)。奈古屋氏は毛利氏を称して大内氏に仕えていたが、大内氏の没落後毛利氏に属し、六五年(永禄八)に奈古屋に改称した(『閥閲録』六三)。