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下松浦と下松舟

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 下松浦は早くから開けた瀬戸内海の天然の良港であった。すでにみてきたように(第一編第六章・第二編第三章)今川貞世の九州下向の折の紀行文『道ゆきふり』の応安四年(一三七一)(建徳二)十一月十三日の条に、下松浦のことが見えている。また、厳島参詣に下向した足利義満が、三月十二日に下松の泊に到着し、大内義弘に迎えられて宮洲御所に一泊したことも知られている(『鹿苑院殿厳島詣記』『鹿苑院殿西国下向記』)。さらに一四二〇年(応永二十七)には、朝鮮国王世宗の使者として来日した宋希璟が、七月の下旬に西関(上関)を発して軍多湾(下松)に到着し、そこで一泊している。下松のことを人口が稠密で、桑や麻が繁茂して村を覆い、稲は田にみちていて、わが国(朝鮮)に似ていると評している(『老松堂日本行録』)。
 このように、下松浦は瀬戸内海通航に大きな役割を果たす港としての機能をもったが、また水軍の拠点としても重要であった。大内氏の有力な水軍であった冷泉氏が、早くから市域の末武や河内に知行地をもち、陶隆房に追われて一旦は手放したものの、再び毛利氏によって下松領知を認められたのは、このような事情によるものであろうか。
 毛利氏の時代になると、軍港として注目され、毛利氏麾下の水軍の士が大量に入り込んでくる。毛利水軍には、早くからの直属水軍であった児玉・粟屋氏、小早川系水軍の乃美・浦氏、大内系水軍の冷泉氏、さらには伊予の村上水軍と多様な系統があり、それらの諸氏や配下の士が各港に駐留した。そのために、港の周辺に知行地を配されることも多かった(第四章、3)。
 下松浦では古くからあった下松舟に注目して、これらの水軍の将を派遣することもあった。安芸の河内警固衆として早くから毛利水軍の中核となった児玉水軍の事例についてみよう(『閥閲録』一九)。
 天正九年(一五八一)三月十四日、毛利輝元が児玉元村に宛てた書状によると、伊予の河野通直と石見の吉見広頼息女との縁辺が調い、広頼の息女を防州より厳島に呼び寄せることになったとき、下松前より大舟を一艘調達し、水夫を乗せて差上げるよう児玉元村に命じている。
 無年号であるが天正十一年ごろのものと思われる輝元の書状では、元村に下松舟の借用を命じ、入費については別に申し付けるから、調達に全力をあげるよう指示している。
 天正十三年と思われる二月二十三日付の児玉就光(元村の父)と孫の元光に宛てた輝元の書状に、下松舟を安芸の沼田舟や草津舟同様に来る三日に出船するよう命じている。羽柴(豊臣)秀吉の紀州出征に関連したものか。沼田舟とは小早川系水軍の乃美氏、草津舟は同族の児玉氏を指すものと思われる。
 一五八五年(天正十三)四月二十四日には、秀吉の四国出陣に際して、毛利氏も要請を受けて伊予に渡海することになり、分国をあげて来る五月二日に渡海するから、下松舟を調達して日限に遅れず出立できるよう、就光に命じている。
 伊予渡海軍を乗船させるには大量の船が必要であるが、下松浦にはそれに応えるだけの調達能力があったのである。
 また同年と思われる七月十一日付の輝元書状では、急用があるので下松舟を夜を日に継いで下関まで差下すよう元光に命じている。
 八六年(天正十四)の九州出陣に際して、輝元は九月一日に領内の諸浦に命じて、来る十日までに舟を下関に集中させるようにしている(『閥閲録』一一八)。下松浦からもこれに従って出船したものと思われる。
 九一年(天正十九)十一月十八日に、水軍の飯田元覚や御郷勘兵衛に対して、知行二〇〇石につき七端帆船一艘の軍役を定めている(『閥閲録』一三五・一三七)。来るべき朝鮮出兵に備えてのものであろうか。