花岡の町をさまざまな人が往来しているが、豊臣秀吉も何度か往来し、時には宿泊している。
一五八六年(天正十四)三月一日、秀吉は島津氏討伐のために、大坂を出発して九州に向うが、その途次十九日に岩国の永興寺、二十日に呼坂(熊毛町)、二十一日に富田(新南陽市)と花岡を経由している(『九州御動座記』)。
また、朝鮮出兵を計画した秀吉は、九二年(天正二十)三月二十六日に京都を発ち肥前名護屋下向の途についた。山陽道を西下して四月十一日に広島に着き、毛利氏の歓待を受けて広島にしばらく滞在、十五日に広島を発ち玖珂郡高森(周東町)に一泊し、翌十六日には花岡に到着し、ここで泊まっている。その後、天神国府(防府市)・埴生(山陽町)・赤間関(下関市)を経て小倉(北九州市)に渡るが、なかでも花岡は輝元が井原元尚を派遣して秀吉の賄方とし、念入りの準備をして歓待したという(『毛利輝元卿伝』)。名護屋からの復路は天神国府を経て花岡に宿し、玖珂に到っている。
秀吉の往来で花岡の町が賑わったことはいうまでもないが、朝鮮に出兵する将士とその荷物で混雑もした。
九二年八月、関白豊臣秀次が花岡奉行に宛てて、京・大坂より名護屋までの次馬・次夫(宿駅の人馬)についての掟書を出している(『村上家文書』)。その要点を記すと、
一 次馬は一里につき精銭一〇文宛、一〇里分は合わせて一〇〇文とする。
一 次夫一人は一里につき四文宛、一〇里分合わせて四〇文とする。
一 人夫の荷物は一荷につき一〇貫目とする。
一 馬の荷物は一駄につき三〇貫目とする。
一 朱印を押して渡すから、其の旨に任せて使用し算用すること。
一 次馬・次夫については、朱印がなければ一切認めないこと。
一 駄賃馬人足を借りる場合には、駄賃の高下なく貸すこと。
一 次夫一人は一里につき四文宛、一〇里分合わせて四〇文とする。
一 人夫の荷物は一荷につき一〇貫目とする。
一 馬の荷物は一駄につき三〇貫目とする。
一 朱印を押して渡すから、其の旨に任せて使用し算用すること。
一 次馬・次夫については、朱印がなければ一切認めないこと。
一 駄賃馬人足を借りる場合には、駄賃の高下なく貸すこと。
以上のような内容で、花岡奉行に指示が出されているが、同様のものが各地で出されたものと思われる。宛先が花岡奉行となっているが、このころには花岡に奉行が置かれていたのであろうか。あるいは総動員体制の中で重点的な宿駅に置かれたものであろうか。
花岡にはこのころすでに市の目代が置かれており、近世に入って萩藩の勘場や本陣の所在地として引き続き栄えた。