表中に庄原淡路・庄原与市・庄原次郎右衛門の名前が見える。いずれも少給主であるが一族であろうか。庄原氏の系譜については明らかでないが、一五五六年(弘治二)四月二十一日の須々万沼城の攻防戦で戦死した庄原木工介元繁に関わる人たちであろうか。庄原元繁の先祖は宍戸氏の分れで、元重のときに庄原郷に下り庄原氏を興したという。元重の孫が元繁である。元繁の子孫が都濃郡に知行地をもったかどうかは分からないが、子孫はのちに帰農して市域の温見に土着し、角姓に改めて今に伝わる。
角家には毛利輝元の書状二四通が伝えられている。直接に市域との関係はないが、いずれも天正期を中心にした毛利氏の全盛時代のものばかりである。一五八五年(天正十三)の伊予出陣に関するものや、輝元自筆の書状も含まれて貴重である。庄原家の華やかな時代をしのぶ家宝として大切にされたものであろうか。もと折紙であったものが、表装の段階で切紙にされたようで、文書の原型をとどめないのが何としても惜しまれる。