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在地の有力者

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 毛利氏の家臣ではないが、古くから伝わる神社も厚く遇されている。花岡八幡一三六石、鷲頭妙見九〇石の社領は、長穂竜文寺(徳山市)・富田建咲院(新南陽市)・鹿野漢陽寺(鹿野町)・遠石八幡(徳山市)と並ぶ、都濃郡内の有力寺社として保護されていることを示す。花岡八幡は、慶長四年(一五九九)二月十日付の「花岡八幡宮目録安(案)書」によると、この中に地蔵院・楊林坊・常福坊・千手院・閼伽井坊・香禅寺・惣持坊・長福寺・関善坊の九坊分六七石九斗一升五合の坊領も含まれている。一五八九年(天正十七)の「検地打渡坪付」から、これらの社坊領が末武庄にあったことが知られる(『村上家文書』)。鷲頭妙見は大内氏の保護と妙見信仰によって隆昌を極めたものである。
 寺院については市域に目立ったものは見受けられない。
 寺社のほかに、地域の有力者として毛利氏に掌握されたものに散使や目代がある。
 散使は近世庄屋の源流で、土着の地侍か豪農たちであろう。戦国時代に村落がしだいに再編成されて、近世村落に移行する過程で、村落内の貢組徴収その他の用務を請け負った代償として、給禄を与えられたものであろうか。市域で散使給を受けた者に、豊井郷散使勘左衛門・末武郷散使市之丞がある。
 目代はこのころは市に関する業務を管理していたようである。市域では、垰市・窪(久保)市・岡市・花岡市・下松西・下松中市の六カ所に置かれており、山陽道沿いに早くから開けていた地域であることを示している。花岡に奉行が置かれたことも、近世に萩藩領の勘場や本陣の所在地になったこともよく理解できる。