一六〇〇年(慶長五)九月十五日の関ケ原の役に敗れた毛利氏は、十月十日に本領地を収公されて、旧領地の一部である防長両国に減転封されることになった。この過程で、輝元から全領を収公して、吉川広家に中国のうち一~二カ国を、毛利秀元に長門国を与えようとする動きもあったが、広家や秀元がこれを辞退したために実現しなかった。
思いがけない事の成り行きに、輝元は一時は所帯の放棄を考えたが、重臣たちに諌められてそれもならず、京都の大徳寺に入って心を鎮め、出家して宗瑞幻庵を名乗った。ようやく防長への移封を決意した輝元は、十一月五日に請け書を出し、同時に広島留守居の家臣たちに対して新領主福島正則への城地明け渡しを命じた。
このようにして、毛利氏の防長への移動が行われることになったのであるが、輝元・秀就父子はしばらくは領国に入ることができず、直接に政務をみることができなかった。藩主不在の藩政のスタートであった。
これより先、広島時代の一五九八年(慶長三)から惣国検地(兼重・蔵田検地)が行われていたが、防長の結果を早急にまとめる必要に迫られ、一六〇〇年の暮に二九万八〇〇〇余石に決定し、これを防長両国の総高とした。この結果に基づいて、蔵入地を設定するとともに、一族や重臣に要地を与え、その他の家臣にも知行地を配賦して新しい出発をすることになった。すなわち、秀元には三万六〇〇〇余石を与えて西境の豊浦郡長府(下関市)に封じ、広家には玖珂郡岩国(岩国市)で三万余石を与え東境に備えさせた。さらに、一族の宍戸元続を佐波郡右田(防府市)に、毛利元政を熊毛郡三丘(熊毛町)に、毛利元康を厚狭郡荒滝(楠町)に、毛利元鎮を豊浦郡滝部(豊北町)に、繁沢元氏を玖珂郡椙杜(周東町)に配し、また重臣の益田元祥を山陰境の阿武郡須佐(須佐町)に、福原広俊を中央部の山口に近い吉敷郡吉敷(山口市)に配して領内の要地を固めさせた。