関ケ原の役後、毛利氏は中国地方八カ国から防長二州へと大幅な減封を受け、しかも削封された旧領六カ国については、一六〇〇年度の既収貢租を新領主に返還しなければならなくなった。中国の役・広島城の建設・朝鮮出兵・関ケ原の役と続いた膨大な出費にあえいでいるところに、返租問題まで抱え込むことになったのである。この六カ国返租問題が、萩藩毛利氏の初期藩財政に深刻な影響を与えたのである。
削封された六カ国のうち、安芸・備後が福島正則に、出雲・隠岐が堀尾吉晴に、伯耆(半国)を中村一忠に、石見・備中(半国)が徳川氏の代官に引き渡され、それぞれに返租問題が生じたのであるが、地域によって返納額や条件に差異のあったことはいうまでもない。この返納額は少なく見積もっても、福島氏に七~八万石、堀尾氏に四万石、中村氏に一万石、徳川氏代官に三万石、合計一五~一六万石はあったようである。返済方法は、大部分が銀納だったようで、これに大塚屋などの上方商人が関係している。
この返済は、防長以外の六カ国から防長に移動してきた家臣だけでなく、以前から防長に知行地を持っていたものも例外なく、全家臣の共同責任とされた。そのため、家臣の知行は原則として旧来の五分の一に減額された。家臣たちは各自の負担額を弁済するために、家財や余分な武具を売却したり、あるいは借済してこれを処理しなければならなかった。なかには知行地を売却する者や、借済のため禄を離れる者もあった。
返済問題と、大幅に削封されたなかでの領国維持のため、農民にも当然にその負担が転嫁された。それが七三パーセントという高額租率となって農民にのしかかってきたのである。福島氏への返還にあたって、大島郡や熊毛郡が抵当にされたという言い伝えは、その負担が全領民のものであったことを示している。
このように、毛利氏は藩政出発の当初から苦難の道を歩むことになった。この返済は一六〇二年四月ごろまでかかり、三年間は藩財政は破産寸前の状態であった。このような財政状態のなかで、萩城の建設が始まったのであるから、家臣はもちろん、領民にとっても事態は深刻であった。